yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『江戸三国志』(吉川英治著、講談社刊、1982年)の世界

文庫本になっているものでは全3冊。新聞小説だったようで、とにかく長い。同著者の『三国志』はもっと長い。彼の著書の多くがこういう膨大なものである。昔の作家たちの胆力がいかにすごいか判る。読者を飽きさせないで惹き付けておくという手腕のみせどころ。

文体に慣れるまでにちょっと時間がかかった。「です」「ます」調に馴染みがないからかもしれない。池波正太郎の文体と比較してしまった。劇作家としてスタートした池波の文体は切れがいい。私はこちらが好み。とはいえ、吉川のも慣れると、この作品世界にはこの文体でなくてはならないのだと分かる。江戸講談の世界。戯作から続いている文体といってもいいのかも。現代人には取っ付きにくさもあるのはたしか。

当時の江戸の風景、風物を描き込んでいるところは、池波と共通している。文庫本ではなく、全集の一冊だと風間完の挿絵が付いていて、その中に隅田川が神田川に分流するのを上から俯瞰しているものがある。川にかかる大橋、川をゆく猪牙船。両岸の家々の街並。行き交う人に駕篭といった風景は、あの洛中洛外図を思わせる。とても細密に描かれている。この光景を頭に思い描きながら、この作品の江戸での物語を読むと、感慨もひとしおなのかもしれない。

作品の世界は、まさにあの八犬伝の複雑さに似て入り組んでいる。登場人物も多い。歌舞伎などとの共通点は「失われた宝」——それは短刀だったり、面だったりするのだけど——を探すというモチーフ。お家再興がそれにかかっているから。ここではそれが日本だけでなくイタリアとまたがっている。中国と日本をまたにかけた近松の『国性爺合戦』をも連想させる。本邦では尾張徳川家、狛家、イタリアでの貴族の家系。こちらには当時日本に派遣された宣教師の宣教活動が絡められている。

吉川は綿密に資料を収集、それを駆使したに違いない。でも、ちょっと「無理」があるかもとは思うけれど。こういうスケールで小説を書く、あるいは物語を語るというのは、今ではあまりみられないのかも。そういうのは漫画に席を譲ったのかもしれない。