yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「羽生結弦×野村萬斎 表現の極意を語る」

録画したものを貸していただいた。想像していたよりずっと内容の濃いものだった。羽生結弦さんの強い希望によって実現した対談であったことは、彼の質問の的確さから一目瞭然。きわめてピンポイントのときとしては哲学的ですらある質問内容。萬斎さんもそれに真摯に応える。芸術とはなにか。美はいかに実現できるのか。模索しつつ紡ぎ出されるひとつのパフォーマンス。そのあり方を極めるという生き方、演じ方。そこにアーティスト「羽生結弦」と「野村萬斎」との一致をみた。

印象的だったのは、アスリート/アーティストとしての羽生結弦さんの質問のインテンシブさ。葛藤、あえていうなら苦悩の発露としての質問。それに胸うたれる。美のイデアに近づくために、現在の技術をどう磨くのか、いかに高めるのか。どうすれば「現在」をアウフヘーベンできるのか。芸術が理性と感性との相見えたところに結晶するものであることを、この対談は示してくれている。能舞台という小宇宙。そこで実現したの二人の天才の「邂逅」は、普通の対談を超えた宇宙的必然のようなものを感じさせた。「陰陽師」という芸術作品を二人で作り上げた、その現場に立ち会った気がした。稀有な体験。

萬斎さんは羽生結弦というひとに、世阿弥のいうところの「時分の花」を見ただろう。それを超え出て「まことの花」を咲かせる将来もみていたはず。だから最初はどこか距離があるような、面映そうな萬斎さんの表情が次第に変わって行ったのだと思う。

萬斎さんの、能における世界、宇宙の捉え方が「天・地・人」に端的に示されている。「天と地のレクイエム」を舞った結弦さんだから、即座に萬斎さんのいうところを理解したにちがいない。

日本のパフォーミングアーツの原点である能。能は日本の美学を最も良く表している芸能といえる。能はまた哲学でもある。その哲学から生み出される美の形。美を実現するためには、技術を「極める」ことは必須条件。歌舞伎もそうだけど、型があるのはそのため。「型」とは技術の結晶であると同時に、それを超える通過点でもある。ここをクリアできない限り、上へは行けない。ここに日本のパフォーミングアーツの特徴がある。羽生結弦さんは「型」をジャンプのようなスケーティング技巧と捉え、理解したようす。

萬斎さんが能の美学として呈示してみせたひとつが「引き算の美学」とでもいうべきもの。西洋では音楽に合わせて演じる場合、それらすべてを表現しようとする。それに対して能では音をみずから創りだす。身体に触れているものすべてを、音を出すものとして捉える。いわば無から有を創りだす。ここが西洋との違い。「音についたり離れたりが自在にあるのが、僕らの感覚」と萬斎さんはいう。羽生結弦さんはそれを的確に理解したようだった。無から創りだすのだから、自身の身体の声に耳を傾ければいい。自身が空間を支配できる。身体を取り囲む音(楽)に支配されるのではなく、自らが支配する。萬斎さん曰く、「リズムに支配されるのではなく、支配する」と。羽生結弦さんのそのあとの演技に、これが活かされていた。

能におけるもうひとつの美学が「緩急の自在性」。能では回って舞っているときは無我に近い状態になっている。その「たゆたう」舞で、(宇宙の)エネルギーの流れを魅せる。そこでポンと跳躍し、立地することで、リズムを刻む。その舞のリズムは「序破急」になっている。ゆっくりと始まり、早くなり、クレッシェンドに激しくなって終わるというリズム。これは日本の芸能に共通したリズムのあり方。

羽生結弦さんは「序破急」も即座に理解していた。観客との双方向性のものとして捉えているのは、さすが。「くるぞ、くるぞ」と観客がみているところで、予想通りのジャンプ。リンクを回っている流れが破られる。そこからより激しいスケーティング、ジャンプへとエネルギーレベルを挙げて行き、いちばん高まったところで終わる。羽生結弦さんの「SEIMEI」はまさにそういう終わりかたをしていた。

羽生結弦さんの最後の質問は演技者としてリンク(という舞台)にどう「立つ」のか、その場の観客にどう対峙するのかということだった。萬斎さん応えて曰く、「役者である以上、舞台に立つだけで、注意を自分に向けさせなくてはならない。そのためには、その場の空気を『纏う』のだ」と。能の場合は舞台四隅に立つ柱に「気」を送り、その小宇宙を支配する。気を送る(ここはまるで安倍晴明もどき)には、自身の精神性が重要になる。萬斎さんのこのことばは羽生結弦さんには、「救い」になったと感じた。己を、その力を信じてそこに立つ。場に支配されるのではなく、支配する。それによって、双方向的なエネルギーの交流が他者(観客、ジャッジ)との間に起きる。それをまた自身に吸収することで自身が解放され、その結果より高いパフオーマンスが可能になる。

対談そのものが信じられないほどインテンシブ。萬斎さんも「好敵手」に対談のしがいがあっただろう。羽生結弦さんは迷い、悩んでいたことから自由になり、前に進むのがより楽しみになったはず。

この対談のあと、羽生結弦さんは、NHK杯とグランプリファイナルでいずれも300点超えを出している。でもそれはあくまでも経過点でしかないだろう。アスリートとしてだけではなく、美を追求するアーティストとして。