yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』「大川端庚申塚の場」新春浅草歌舞伎@浅草公会堂1月9日昼の部  

以下、「歌舞伎美人」からの「配役」と「みどころ」。

<配役>
お嬢吉三   中村 隼人
お坊吉三   坂東 巳之助
おとせ    中村 梅丸
和尚吉三    中村 錦之助

<みどころ>
 第1部の幕開きは、『三人吉三巴白浪』。「大川端庚申塚(こうしんづか)の場」は吉三という同じ名を持つ三人の盗賊が出会う、物語の発端となる場面。七五調のせりふで知られる黙阿弥の名作。新年の幕開きに相応しい一幕です。

お嬢吉三のおとせを大川に突き落としてからのあのあまりにも有名な台詞が以下。大向こうさんから「待ってました!」の掛け声が。

月も朧(おぼろ)に 白魚の
篝(かがり)も霞(かす)む 春の空
冷てえ風も ほろ酔いに
心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(からす)の ただ一羽
ねぐらへ帰る 川端で
竿(さお)の雫(しずく)か 濡れ手で粟(あわ)
思いがけなく 手に入る(いる)百両
(ここで「厄落とし!」と声がかかるはず?でもかからず)
ほんに今夜は 節分か
西の海より 川の中
落ちた夜鷹は 厄落とし
豆だくさんに 一文の
銭と違って 金包み
こいつぁ春から 縁起がいいわえ

「厄落とし!」と声がかからなかったのは、隼人の声に今一つ艶がなかったからかもしれない。厄落としをしたのは、次に出てきた巳之助だったよう。お嬢に声をかけ、のっそりと駕籠から出てくるところが、とくに良かった。声がいい。台詞回しもそれ以上にいい。歌舞伎独特の発声なのに、あまりその「臭み」を感じさせないのは、台詞そのものが身体になじんでいるからだろう。このお坊の登場によって、その場の雰囲気が変わる。そういう場になっていることに初めて気づいた。声は高からず、低からず、十分に胸で共鳴している。その響きによって、あたりが明るくなる。そんな声。

お坊は武家上がりだから、品の良さ(脆弱性、女性性)が必須条件。とはいえ、品がいいことが、ある種の「弱み」になっている。でもそれを魅力に変えなくてはならない。お嬢と和尚に比べると、やりにくい役といえるかも。役柄の焦点をどこに合わせるかによって、ずいぶんと印象は変わる。お嬢と和尚との中間にあたる。ラカン的な読みをあえて施すなら(スミマセン)、「父―母―子」の三角形の「子」に当たる部分。つまり想像界から象徴界に移行する「子」(現実界)。つまり私たち自身。なんとなく中途半端な役という印象がぬぐえないのは、私たちがその過程を経てきたか、あるいは経つつあるか、それによってお坊の解釈が変わるから。巳之助がみせたのは、すでに象徴界に移行したであろうお坊だった。彼のここ数年の体験を鑑みれば、それは当然だろう。

隼人はお嬢という役を張るには、まだ時期尚早だったかも。お嬢はお坊に比べると「演じやすい」役。この役も「父―母―子」の三角形でいうなら、「子」にあたる。中途半端なのはお坊と同じでも、こちらはかなり「母」、つまり想像界に寄った演じ方ができる(はず)。でもお父上の錦之助さんとの共演。それは無理だったんでしょうね。よく理解できる。あの『ワンピース』でのはじけ様は、やっぱりできませんよね。そういや『ワンピース』そのものが、想像界に覆われた作品なのに、あらためて思い至る。

というわけで(?)、もっとも「おいしいとこ取り」をしたのは、錦之助かもしれない。堂々と安定感があった。息子たちを「父」として「まとめて面倒見る」というのが、舞台を超えて伝わってきた。