yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

玉三郎・獅童主演 シネマ歌舞伎『高野聖』@神戸国際松竹9月29日

松竹のシネマ歌舞伎のチラシが以下。

「坂東玉三郎 泉鏡花 抄」を締めくくる作品。以前見逃して、どうしても観たかったもの。『天守物語』はシネマ歌舞伎版と実際の歌舞伎舞台で観ている。『海神別荘』はシネマ版で観て当ブログの記事にもしている。リンクしておく。『天守物語』、『海神別荘』に比べると、クロノロジカルには現代にもっとも近く、より「リアリスティックな」作品。その点で『日本橋』に近い。それぞれの作品が描き出す世界は同じだけど、それへのアプローチの仕方が多様である。テクニックを縦横無尽に駆使しつつ、幻想世界を浮き上がらせる。それにしても鏡花の多面性には驚かされる。詩的イマジネーションの芳醇にも。でもそれは詩というより、やっぱり小説。谷崎との共通性を感じる。詩を支配するのはある種のミニマリズムだけど、小説はそれの対極にある。私個人としては鏡花の文体になじめなくて、入り口で頓挫ってことが多かったのだけど、今回『高野聖』を読んで、どこかなつかしい感じがした。上田秋成の『雨月物語』に似ているからかも。

玉三郎が鏡花とその作品への思いを語った「美しき泉鏡花パビリオン」。その中で彼は、自身が目指したのは、「このシネマ歌舞伎版を観たあと、小説を読んだような感じを視る側にもってもらうこと」というようなことを言っていた。たしかに、「小説」を読んだように感じた。ただ、鏡花の「小説」というよりは、玉三郎のそれである。玉三郎と石川耕士は『高野聖』を一旦解体、再構築している。新たに小説的な「歌舞伎」を創出している。鏡花小説の文体は劇文体として再生するにあたり、過剰さはぎりぎりのところまで削られている。選りすぐったもののみを残している。その意味で詩に近くなっている。

そのミニマリスティックな「文体」を補うのがこの場合映像ということになる。ズームイン、ズームアウトを駆使したカメラワーク。実際の歌舞伎舞台では不可能なことを、カメラが可能にしている。さらには主人公の僧が山道を昇って行くシーンで、まるで映画のような「実写」を挿入している。この山道の木立から漏れてくる光なんて、『羅生門』の宮川一夫のカメラワークを想起させた。

そこに立ち現れるのは詩と映像のハイブリディティ。紡ぎ出されるのはまさに鏡花の小説世界。

でも微妙に原作とのずれがあるのは、それはやっぱり玉三郎版鏡花だから。とくにその人物の解釈。鏡花小説の「女」は、妖艶でいて可憐な三十ばかりの女。玉三郎が具現化した女は、年齢不詳。フェミニニティを極限までつきつめたらこれが遺ったという、アイコンとしての「女」。その点では原作の女より彼が描き出した女の方がずっと神秘的。魔物というよりは聖女に近いかも。それはやはり女形が演じる「女」だからだろう。歌舞伎の女形が「女」を演じることで、「女」がもつ純粋さをより強く、深く描き出すのが可能になったのでは。

同じことは僧にもいえる。原作では、この僧、宗朝が旅の途中で道連れになった若い男に、自分が若い頃に遭遇した奇妙な体験を話すという体裁を採っている。入れ子構造。結果、僧の語る体験談はより相対化され、括弧に括られる。でも玉三郎版ではこの僧が主人公。語り手は登場しない。括弧に括られないことで、そこに現出する世界が、視る側により「生」に迫る。より強烈なインパクトを持つ。

これは原作を読んだときもそうだったのだけど、もっとも感動したのは、女の白痴の夫が木曽節を歌うシーン。僧が思わず落涙するこのシーン、すばらしかった。玉三郎、その夫も良かったのだけど、なによりも獅童が良かった。歌声を聴きながらそっと下を向いて涙する。それを見た女の、「あなたはほんとうにお優しい」と言う箇所。原作では「(女は)得もいわれぬ色を目にたたえて。じっと見た。私も首を低れた。向こうでも差し俯向く」となっている。獅童は僧の心理を踏込んで演じていた。ここ、泣いてしまった。獅童という役者さん、組む相手によってずいぶん印象が変わる。これは彼の演技の中で屈指のものだと思う。

この場での獅童の演技が重要なのは、将来彼が(女が予言した通り)その徳の高さで高野聖にまでなったことを予見させるものになっていなくてはならないから。さもないと、このシネマ歌舞伎の『高野聖』というタイトル、内容からはかけ離れたものになってしまう。原作の小説では語り手、「私」がすでに高野聖になっている僧、宗朝の話を聴くという体裁を採っているのでこのタイトルに違和感はない。歌舞伎版では語り手が語るという「入れ子構造」は排されているので、どこかに宗朝が「高野聖」であるという根拠を示す必要がある。ここでの獅童の演技は、その役の宗朝がいかに同情心に篤い人物かを、高徳の人かを、文章で表す以上に的確に表現したものだった。

以下松竹のサイトから。

概説
泉鏡花の代表作である小説を、石川耕士と坂東玉三郎が脚本と演出を担い、2008年に歌舞伎座で初演しました。勧進の旅をする信仰心篤い若い僧と、魔性と聖性の二面性を持つ女のやりとりから、恐ろしくも美しい世界が描き出されます。

あらすじ
修行僧の宗朝(そうちょう)は、飛騨から信濃へ抜ける山道で道に迷い、日も暮れた頃に孤家(ひとつや)にたどり着きます。この家に住むのは妖艶で気高い女と、女が養っている次郎、そして親仁の三人。一夜の宿を乞う宗朝を、女は一度拒みますが、思い直してその願いを聞き届けると、人が変わったように優しく接し始めます。女の案内に従い、宗朝が谷川で体をぬぐっていると、女が背中を流し始め、自らも着物を脱いで寄り添ってきます。宗朝は慌てて女の手を振り払い、川から上がります。女の色気に迷い煩悩の思いが沸き起こる一方、夜更けに鳥や獣たちが女のもとに集う只ならぬ様子に恐れ慄き、宗朝は一心に経文を唱えて心を静めます...。

※『高野聖』は舞台公演の収録ではなく、シネマ歌舞伎用に新たに舞台上で撮影しました。その映像にロケーション素材などを編集で加え、映画的手法を凝らしています。

また、玉三郎の意図を表現した以下の箇所が印象的だった。

そもそも『高野聖』という作品は、「囁きや呟きが十分伝わる世界」であることが望ましいという玉三郎の考えのもと、カメラが自由に人物に寄ったり、セリフの繊細なニュアンスが伝わるような撮り方で今回の作品がつくられました。それが、舞台とも映画とも異なる、シネマ歌舞伎の新たな形として登場する結果になりました。
 「あの世界は小説でしか読めない。映画でやっても難しい世界」と玉三郎が言う『高野聖』の物語世界。特にヒルの森や、眠る僧に忍び寄る魑魅魍魎などの撮影が難しかったとのこと。舞台の小道具でもなく、リアルなロケ映像でもなく、その中間=小説でしか読めない世界が、どのような映像になっているのか、ぜひスクリーンでお確かめください。

玉三郎のシネマ歌舞伎中、この作品がもっとも好きなった。