yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『競伊勢物語(はでくらべいせものがたり)』秀山祭九月大歌舞伎@歌舞伎座9月18日昼の部

紀有常生誕1200年を記念しての演目。初代吉右衛門というより、その娘婿の幸四郎に因むもの。昭和31年に彼が主人公の有常を演じている。そのときの信夫/井筒姫が六世歌右衛門。初代が育てたひとなので、その縁だったのだろう。以下「歌舞伎美人」から。

<構成>
序幕 奈良街道茶店の場
   同  玉水渕の場
大詰 春日野小由住居の場
   同  奥座敷の場

<配役>
紀有常 吉右衛門
絹売豆四郎/在原業平 染五郎
娘信夫/井筒姫 菊之助
絹売お崎 米 吉
同 お谷 児太郎
旅人倅春太郎 初お目見得
井上公春
(桂三長男)
およね 歌女之丞
川島典膳 橘三郎
茶亭五作 桂 三
銅羅の鐃八 又五郎
母小由 東 蔵

<みどころ>
◆忠義のはざまで紀有常が下した苦渋の決断
 文徳帝(もんとくてい)の跡目争いで、朝廷では惟喬(これたか)親王と惟仁(これひと)親王が対立していました。大和国春日野に住む小由(こよし)の娘信夫(しのぶ)は、玉水渕で惟喬親王方に奪われていた神鏡を銅羅の鐃八(にょうはち)と争いながら手に入れたのも、夫の豆四郎(まめしろう)が惟仁親王方の旧臣の子であり、忠義を立てさせたい一心からのことでした。一方、紀有常(きのありつね)が小由の住居を訪れ、信夫を返してほしいと申し入れますが拒まれます。信夫は実は有常の娘で、訳あって小由に託していたのです。有常が今、自分の娘として育てている井筒姫は、実は先帝の子であり、在原業平と深い仲。惟喬親王はそうとは知らずに井筒姫を所望するので、二人を助けるために、有常は姿形のよく似た信夫と豆四郎に自らの思いを伝え…。
 王朝時代を舞台に、「伊勢物語」の趣向を巧みに取り入れた作品です。歌舞伎座ではじつに半世紀ぶりの上演となります。

一見だけではよく分からない人物間の関係。筋書についていた表をじっくり検分してようやく悲劇の原因が判った。観劇の前にしっかりと確認しておくべきだった。この演目はとくにそう。というのも、娘の信夫とその夫豆四郎を殺す有常のその意図も理由も判らないから。

『妹背山婦女庭訓』にも似たような場面がある。そこだけ単独で舞台に乗ることもある「山の段」。清澄、定高がそれぞれの子、久我之助、雛鳥の首をはねる。こちらは有常のように主に対する忠義からではなく、蘇我入鹿の横暴を逸らすためだった。いくら理由が判っても、現代の観客が観ると、なにか割り切れなさが残る。

同様に、この『競伊勢物語』の有常による彼の実の娘、信夫とその夫、豆四郎の首をはねるという行為にも、割り切れなさが残る。「無惨だ」と抵抗し、嘆く信夫の育ての母、小由の方に同情してしまう。いくら惟喬親王と彼が側室に望んだ井筒姫が兄妹であると判明してもである。兄妹が夫婦になるのは「畜生道」で、『三人吉三』でお坊吉三が妹と弟を手にかける理由と同じ。このモチーフは歌舞伎ではよく登場するのではあるけれど。

初演は1775年、大坂の歌舞伎小屋に乗ったのだという。作者は奈河亀輔。天皇家の御位争いに在原業平作といわれる『伊勢物語』、そして当時人口に膾炙していた百人一首の「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに  乱れそめにし われならなくに」を採りこんでの「力作」だった。戦後の上演はわずか3回のみ。本公演が4回目になる。
 
今これを舞台にあげたのは、かなりの冒険だったかもしれない。今まであまり上演されなかった理由もわかる気がする。今回の演出は座頭の吉右衛門だったのだろうけど、古色蒼然を今風にするのは荷が重かっただろう。3回目の公演は平成15年10月の国立劇場でだった。現猿翁が有常で、他の演者はすべて澤瀉屋。それに石川耕士が脚本を書いている。おそらく現代の観客に合うよう原作をかなり改変したのでは。

2時間の舞台、かなり退屈した。リーズニングの部分で「納得」できないと、最後のクライマックスが沈んでしまう。三階の後席だったのだけど、なんとなく雰囲気が盛り上がっていないような気がした。吉右衛門の名演をもってしても、カバー仕切れていなかったのでは。

染五郎は『阿弖流為』での演技をみた後だったので、本来の力をセーブしている感じがつきまとった。対する菊之助はもともと「静」タイプの役者さんなので、ニンに合ったこの役は、決まっていた。最初にほんの少ししか出て来ない米吉は、可憐で可愛かった。ずっと離れた三階席からでも舞台でついそこに目がいってしまった。

この昼の部、お隣の席の方が年配の、もと粋筋かと思われるきれいな方。生粋の江戸っ子のようで、彼女とお喋りできたのが楽しかった。谷中の方で、小さい頃から義太夫やら三味線やらのお稽古をされてきたという。私にも、「なんかお習いましよ」とおっしゃって下さった。「音痴なんで」とお答えしたら、「そんなの大丈夫よ」。心強かったです。「どちらからいらっしたの?」と聞かれたので、「宝塚です」とお答えしたら、「まあ、私、若い頃ずいぶん通ったのよ。越路吹雪さんとかね」というお返事。「宝塚は嫌いです」とは言いにくかった。