yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『武士道残酷物語』たつみ演劇BOX@新開地劇場9月13日昼の部

この日は「たつみday」。たつみさんが「イヤというくらい」出演されるとのことだったので、勇んで新開地劇場に。といいながら5分遅刻で桟敷席に。でもこの桟敷からの観劇、ステキな体験だった。

この日のお芝居、『武士道残酷物語』、たしか2012年9月に新開地劇場で観ている。この時以前に他劇団でも同じ筋書のお芝居を観ていたので、途中から結末が「分かってしまい」、それがあまりにも陰惨なので途中退出することも考えたほど。とても印象に残っていたお芝居。

たつみ座長も口上でおっしゃっていたけれど、全体のトーンがかなり前のとは違っていた。それは構成が変わったことと、重点の置き方が変えられたことにあったように思う。前のは浅野家の江戸家老鬼頭の主人公の下級武士五十嵐への「苛め」の場面がかなり過激だった。それが今度はかなり抑え気味になっていた。どちらかというと、主人公五十嵐の幼い主君を思う忠義心の方が、より強く打ち出されていた。陰惨といえば陰惨なのだけど、そこに未来へと繋がる「光」のようなものが垣間見えるように描かれていた。ただ、五十嵐が自らを犠牲にして忠義を尽くした主君、浅野長矩(のちの浅野内匠頭)も、二十年後にはあえなくその命を散らすことになってしまう。例の『忠臣蔵』の発端である。それが透けて見えるので、悲劇性も増す。しかも上位の者(家老)が下位の者(下級侍)を虐めるというのが、後の松の廊下の刃傷沙汰を「予見」させる仕組みになっているのかも。ただその悲劇性はサド/マゾ的陰惨からくるものではなく、歴史の皮肉からみえる悲惨さ、残酷。こちらの方がずっと知的。

これはソースがあるようで、タイトルも同じ『武士道残酷物語』。7話からなるオムニバス形式を採った映画。戦国時代から現代に至るまで脈々と続く「封建社会」の、そしてそれを担わされた「武士」たちの悲劇を描いているという。これはサイトからの情報。映画を観ていないのでご容赦。リンクしておく

第四話がたつみ版に近いような。件の第四話の時代は、江戸は江戸でも元禄時代を下ることおよそ百年の天明期。だからたつみ版はこの四話にあの人口に膾炙した「(元禄)忠臣蔵」を「強引に」組み込んだもの。とはいえ、とてもよく出来ていて、不自然感がなかった。お父さまの小泉のぼるさんが考案された初めのバージョンの完成度が、高かった所為だろう。

以前にみたのと違っていたのは、目隠しをされた五十嵐が騙され、謀られて斬り殺すのが妻だけではなくその息子もだったこと。子供を殺すというのは、しかもそれが自身の子であったというのは、陰惨中の陰惨。でもなぜか今回のはそこのところがけっこう「あっさり」と済んでいて、ほっとした。五十嵐の息子の死は幼い主君、浅野長矩へと繋がってゆく、つまり「再生」を暗示しているのではなんて、勝手に想像してしまった。暗さよりも一抹の光に焦点を合わせているところが、私には尊く思えた。特に最後の幼い長矩の五十嵐へのねぎらい、「大義であった。世は忘れぬぞ」が効いていた。この日は桟敷席で客席全体がおそろしくクリアに俯瞰できたのだけど、ほとんどの観客が目にハンカチを当てていた。もちろん私も。大石内蔵助役で長矩の手を引いて花道を退出するダイヤさんの目も涙で光っていた。