yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『おちくぼ物語(おちくぼものがたり)』八月納涼歌舞伎@歌舞伎座8月22日第一部

以下、「歌舞伎美人」から。

<配役>
おちくぼの君 七之助
左近少将 隼人
帯刀  巳之助
阿漕  新悟
牛飼の童三郎 国生
兵部少輔 宗之助
典薬助 亀蔵
北の方 高麗蔵
源中納言 彌十郎

<みどころ>
薄幸の姫が貴公子と落ちる恋物語
 源中納言の先妻の姫は、容姿も優れ心も美しいのに、継母北の方や異母妹にいじめられ、屋敷の中の日当りの悪い、一番おちくぼんだ部屋に住まわされ、おちくぼの君と呼ばれています。姫は、着物の縫物などをしながらひたすら耐えしのんでいましたが、唯一の味方である侍女夫婦の取りもちで、都で一番の貴公子左近少将と結ばれます。それを知った北の方は、姫を陥れようとしますが、無理にすすめられた酒を飲んだ姫は豹変し…。
 平安時代に成立した落窪物語を題材に、戦後、歌舞伎化された作品です。意地悪な継母たちにいじめられながら、貴公子との恋を成就させる日本版「シンデレラ」物語です。

これは私にとってはなつかしいお話。小学生の頃に図書館で読んで、はまってしまった記憶がある。日本の児童書ではこれ。西洋ものでは『白鳥の王子』と『人魚姫』。いずれもマゾヒズムが関係していたんだと、今にして思う。

原典の『落窪物語』は四巻に及ぶ長編だという。しかもあの『源氏物語』よりも成立年は以前。ただ、源氏には「継子いじめ」というモチーフはない。平安時代の婚姻制度では、子供は実母、その一族と同居するのが通常だったから、それは当然だろう。だからこの『落窪物語』はかなり特殊なもの。おちくぼの姫君には母方の後ろ盾ががいなかったということになる。この設定によって、姫君の悲劇性が増すということだろうか。

筋書によると。昭和34年(1959)、歌舞伎座で六世歌右衛門のおちくぼ、八世幸四郎の左近少将の配役で初演されたという。宇野信夫が原典を歌舞伎に沿った芝居に仕立てたもの。私の記憶にある(児童書の)『落窪物語』とちがい、イジメからくる暗さはなく、どこか明るい雰囲気。全体が寓話(アレゴリー)として成立しているような気がした。人物全員が「類型」を演じていた。特に北の方、三の君、四の君、典薬助などはそう。こちらは「悪」のグループに入る人物。それに対して、主人公のおちくぼの君、左近少将、帯刀、阿漕が「善」グループ。この単純さが寓話的である。演じる役者にとっては、演じやすく、またやりがいがある役だっただろう。その意味で北の方を演じた高麗蔵がとくに良かった。

七之助は可憐で美しい姫をそつなく演じていた。彼はもっと複雑な人物造型の出来る人だから、ちょっと物足らなかったのでは。左近少将も姫と同じく、類型的な役どころ。隼人もその線に沿って、無理な感情移入をせず淡々と演じていたのが良かった。

それに比べる家来の帯刀はもう少し複雑な役。巳之助の演技は安心して観ていることができた。どんな役でもどこか襞のあるように演じるのはすばらしい。いい役者さん。その妻の阿漕は巳之助と仲の良い新悟が演じた。この組み合わせ、最高。くすっと何度も笑ってしまった。

そして源中納言役の彌十郎、ちょっと立派すぎたかも。でもこのふにゃふにゃした頼りない父を説得力あるように演じたのは、さすが演技派。『祇園恋づくし』でも妻に頭のあがらない男を演じて秀逸だった。この中納言像、責任回避で芸事に逃げ込んでいるという点で『宇治十帖』の八の宮を連想してしまった。貴族の男がいかに父としては「失格」かがよく分かる。おちくぼの姫は最後に想い人と結ばれるけど、『宇治十帖』の八の宮の娘たち−−大君、中君、浮舟−−は不幸なまま終わるんですからね。