yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

巳之助、勘九郎の『棒しばり(ぼうしばり)』八月納涼歌舞伎@歌舞伎座8月22日第一部

十世坂東三津五郎に捧ぐ」という詞書がついている。三津五郎へのオマージュ。「歌舞伎美人」から配役とみどころを。

<配役>
次郎冠者   勘九郎
太郎冠者   巳之助
曽根松兵衛   彌十郎


<みどころ>
酒好きの二人がしばられた末の大奮闘
 無類の酒好きの太郎冠者と次郎冠者に手を焼いていた主人の曽根松兵衛は、ある日、留守中に酒を盗み飲まれないよう、次郎冠者には両手に棒をつかませ、太郎冠者にはうしろ手を組ませ、それぞれ縛って外出します。ともに両手をふさがれてしまった二人でしたが、苦心の末に何とか酒にありつき、さらには興に乗って、ほろ酔い気分で踊り出しますが…。
 おかしみにあふれながらも格調高い舞踊です。十世坂東三津五郎に捧ぐ舞台です。

筋書に、「両手をしばられた次郎冠者と太郎冠者が、互いに協力をして酒蔵に忍び込んで酒を飲み交わし、自由に踊ってみせるという趣向が最大の特徴となっている」との解説が。この次郎冠者と太郎冠者との息が合っていないと、滑稽さが立ってこない。難しい。踊りでもってこの二人の気性と機転、酒好きぶりを表現しなくてはならない。これも難しい。おそらくみている以上に難しい演目。踊りの名手の出しものという点では第三部の『芋掘長者』と共通している。初演時に次郎冠者を演じた六世菊五郎と太郎冠者を演じた七世三津五郎は二人揃って踊りの名手。だからこそ成立した演目だったのだろう。

これも『芋掘長者』と同じく狂言をもとにした岡村柿紅の原作。「坂東三津五郎に捧ぐ」と付記されているように、十世三津五郎が曾祖父の三津五郎の踊りを継承した作品でもある。ちょうど二年前の「八月納涼歌舞伎」(於歌舞伎座)では三津五郎、勘九郎の組み合わせだった。その時の配役表が以下。

次郎冠者   三津五郎
太郎冠者   勘九郎
曽根松兵衛   彌十郎

私はこのとき東京にいたのに、見逃してしまっている。というのも、東京遠征の目的が海老蔵の実験歌舞伎、「蛇柳」をみることだったから。思い返せば、本当に残念。もう三津五郎はいない。口惜しい。

ただ今年の1月の松竹座での『棒しばり』は観ている。次郎冠者が愛之助、太郎冠者が壱太郎だった。これはとても良かった。とくに愛之助の「曲芸」っぽい動きが目に焼きついている。

今回の『棒しばり』、それとは雰囲気が違っていた。おそらく愛之助/壱太郎版が上方特有の可笑しさを最大限発揮させたものだったからだろう。勘九郎/巳之助版はもっと大人しめ。アクロバット的動きはあまりなく、次郎冠者と太郎冠者の掛け合いに可笑しさを込めていた。それと、勘九郎が終始巳之助を気遣っているのが分かった。巳之助もそれに応えて、最大限力を出そうとしていた。でもやっぱり難しいんですよね。巳之助はあれでいて、けっこう生真面目なんだと思う。重圧がどっと押し寄せて来ていたのだろう。かなり緊張気味だったような。

二年前に三津五郎と組み、今回はその子息の巳之助と組んだ勘九郎には万感の思いがあっただろう。インタビューで、「巳之助君と『いつかやりたい』といっていて、それが演れる喜びと、こんなに早くなってしまった悔しさがあります。三津五郎のおじさまと踊らせていただき、次郎冠者も太郎冠者も習った思い出深い演目。ころからも二人でできるよう第一歩としたいです」と述べている。巳之助もこの演目を父の三津五郎から直接習ったと語っている。二人の持ち狂言になるに違いない。リラックスして、楽しみながら演じる二人をまた近いうちに観てみたい。