yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『パイドパイパー』劇団ショウダウン8月1日(土)午後3時30分の部

久々の小劇場系の芝居。劇団のサイトからの「解説」とスタッフ・リストが以下。

それは、謎の笛吹きが導く時空を超えた奇跡の物語。

西洋の民間伝承「ハーメルンの笛吹き男」を作家ナツメクニオが大胆解釈、HEP HALL初登場の劇団ショウダウンが歴史のミッシングリンクの謎に挑む歴史エンターテインメント!

時は13世紀、西暦1284年
とあるヨーロッパの街で笛を吹いた一人の笛吹芸人。子供たちを集め、どこかへ消えた伝説のトリックスター。目的も、正体もわからぬまま、物語だけが残され、そしてそのミッシングリンクは千年後の未来に甦る。
歴史の陰にその姿を見せる謎の笛吹。戦争の中で、平和の中で、王宮で、死の間際で、そして生誕の傍らで何かを探し求める彼ら、彼女らは、いつしかこう呼ばれていた、笛を吹く者、『パイドパイパー』と。

作・演出・出演/ナツメクニオ
出演/林遊眠 宮島めぐみ 流石鉄平 上杉逸平 為房大輔 佐竹仁 飯嶋松之助 伊藤駿九郎

3時30分に始まって終わったのが6時。間に休憩なし。この退屈きわまりない芝居に2時間半もつきあわされて、疲労困憊した。ブレイクがあれば退出するつもりだった。始まって10分しないうちに、げっそりしたから。小劇場系演劇をこの3年ほど観てきたけど、最もつまらなかった。「エンターテインメント」と銘打ってるのは本気?先日みた泉鏡花の『草迷宮』なんて、期待をはるかに超える出来だったのに。エンターテインメントとうたわなくても、十分に条件を満たしていた。この差!

いくつかの問題点を挙げてみる。

まず脚本。つまらない一番の原因。ストーリーの構成がごちゃごちゃしすぎ。劇団新感線路線を採っているのだろうけど、本家には及ばない。新感線も決して良いわけではないけどこんなに「なんじゃ、これ?」的な混乱は少ないように思う。

あの新劇調の台詞はなんとかならないのだろうか。理屈っぽく、冗長。あんなことばで話す人なんて現実にいませんよ。三島由紀夫の芝居はその理屈っぽく、「美にあまりにも淫した」台詞回しをしばしば非難されたけど、舞台に乗ると波に乗り、まったく違和感がないんですよね。一方この『パイドパイパー』、ところどころ日本語としてオカシイ箇所が。もうすこし日本の古典劇の台詞の勉強をしてください。西洋のものなら、シェイクスピア。小田島雄志さんの訳をみて下さい。彼が日本語として「通る」ものにするため、どれほど腐心しているかが分かります。さらに、その新劇調台詞廻しが突如として「ガールズトーク」的なものになるのはなぜ?「ギャップを魅せる」ナンて言わないで。白けるだけですから。

「退屈」の原因の一つがユーモアのセンスに欠けているところ。どんな悲劇にもかならず「コミックリリーフ」はあります。この芝居にはまったくなかった。お説教されている感じは耐え難い。

そもそもこの脚本はゲーム、マンガを下敷きにしている?帰りの車中で検索して、題材として使われている「テンプル騎士団」も「魔笛」も、ゲーム、マンガになっていることが分かった。「やっぱり!」と思った。5月にもゲームそのものを舞台化したようなショーを観たけど、あちらは徹底していた。ヘンな解釈を施していなかった。それが斬新で面白かった。それに対しこの芝居、その出自をあくまでも「隠す」意図がみえみえだった。「歴史のミッシングリンクの謎」なんて言っているところにそれが顕れている。

もっとも白けたのはそのテーマ。最後に「家族って言ってくれて、ありがとう」はないでしょ。「なんだ!ちんけなファミリーロマンスかよ」って。このべたべた感、特有ですね。大衆演劇もときとして「べたべた」を前に打ち出すけど、ここまでの確信犯ではない。その理由はお分かりだと思う。このべたべた感はLINE的なもの。誰でもいいからどこかで繋がっていたいという。その薄っぺらさがイヤ。

その薄っぺらさは西洋文化理解に及んでいた。歴史考証がイイカゲン。たびたびテンプル騎士団の「騎士」が「カトリック」という用語を使っていたけど、カトリックはプロテスタントに対しての名称。イスラムとの闘いということであれば、単に「キリスト教」、あるいは「クリスチャン」というべきだろう。それにね、キリスト教のカテキズム、我々日本人の理解を超える厳密なものなんです。この芝居にみられるようないい加減さとは180度異なっています。その教理を信奉し、「守る」ための十字軍だし、テンプル騎士団だったわけで、この芝居にみられるような能天気さとは無縁。異端は一切排除っていうほどのカゲキなものなんですからね。

モーツアルトの『魔笛』も再々使われていて、これにもクエスチョンマークが何度も付いた。「夜の女王」がなんで「笛吹き」と重なるの?もちろんファンタジー世界ではなんでもアリになるのは納得するとして、それにはそれなりのリーズニングが提出されるべきでしょ?それが一切ナシっていうんでは、あきれかえるだけです。ドラマツルギーを決定付けるかもしれない、この好機を外しまくっているのには、御愁傷さまとしかいいようがない。しかもこの女優さん、いただけません。叫ぶしか能がないの?主役を張るには安っぽすぎる!

「モーツアルトはフリーメーソンをテーマにしていたのでは」と言われてはいますが、それをこんなに安っぽく使ってはダメですよ。根底にある西洋文化への理解の足らなさが露呈しています。異文化理解なんて、そんな生易しいもではないんですよ。それが分かれば、13世紀の西洋世界に背景設定をするなんて無謀は控えたかもしれませんね。やるとしたら、徹底して「ゲーム」として打ち出すべきだったのでは。ヘンに「高踏派」を標榜するのではなく。

役者の滑舌も良くなかった。あの台詞だから同情もするけど。全員が叫んでいた。途中に入るコミックな3人のみが例外。それも脚本の問題で上手く使われていなかった。

さきほども言ったけど、最も「白けた」のは「家族の愛情溢れる」最後のシーン。西洋社会とイスラムとの折り合いのつくことのない闘いを背景にしながら、それを延々と「演じ」ながら、このオチの付け方はないでしょ。あまりにも日本的ご都合主義!「笛吹き」やら「テンプル騎士団」、挙げ句の果てに(観たこともないだろう)『魔笛』を使うなんて、百年早い!西洋と「向き合った」ことのない人の脚本だとまる分かり。日本の古典劇を観て下さい。能、歌舞伎、文楽、そして大衆演劇を。

観客の年齢は高めだった。これも意外。男性と女性の比も4/6くらいで、男性比率が高い。かってこういう「路線」の演劇をやっていた人が多かったのかも。私は「No thank you!」。