yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦さんの『天と地のレクイエム:東日本大震災鎮魂歌「3・11」』

羽生結弦というひとは前人未踏の域に踏込んでしまった。彼が目指しているのは上手い演技では最早ない。そんなところに踏み入ってしまった。選ばれし人。累々と重なっている屍の中から声を発するひと。彼らの魂の集合体。死者の声の代弁者。メディア(巫女)として、死者の声をこちら側の人間に届ける役目を負った人。

この映像をyoutubeで観たのはもう3週間も前。あまりにも重かったし、私自身の想いも深かった。そして、下手な感想はこの演技を傷つけるのが憚られ、どうしても記事にできなかった!

滑り出しから、今までのものとは違うことが鮮烈に迫ってくる。苦悶の表情をうかべ這いつくばるようにして滑る。そこには悲しみ、無力感が。怒りすらも。旧約「ヨブ記」のヨブの嘆き、「(神は)何故こんなに私を苦しめるのか」。嘆きはやがて怒り、抗議になる。「苦悶のゆえに語り、悩み嘆いて訴えよう」。なぜ苦しみの末に死ななくてはならなかったのか。なぜ私なのか。そういう死者からの「問い」を全身で表現する羽生結弦。

従来のクラシカルなスケートではない。スケーティング、スピン、ジャンプの構成上のシンメトリー、バランス性といったものがかなり無視されている。クラシカルバレエというより、モダンダンスに近い印象。あえて「美」を外したのだろう。古典的美しさ、調和ではなく、それを崩した上での新しい表現の形。それでしか表現できないものを伝えたかったに違いない。

「花は咲く」の演技にも単なる振付けを超え出て、観る側に理屈ぬきでせまってくる切実さ、悲愴があった。このレクイエムの演技にはそれ以上の悲愴感が漂う。「花は咲く」の最後が苦しみの先の癒しと喜び、安心感をもたらしてくれるのに対し、この「レクイエム」は苦悶であり永遠に答えのない「問い」である。神戸でこの演目を滑ったというのも、彼はそこに万感の想いをこめたかったからだろう。深い感謝の念に満たされる。まさに「「ありがとう結弦!」。

「レクイエム」はもちろん死者を悼むもの。この世に残された者が彼岸に行った人を懐かしみ、愛おしむもの。此岸から彼岸への橋渡しをするもの。西洋的な、あえていうならキリスト教的解釈だと、あくまでも天上界へ伸びて行く階段を意識させるもの。でも彼のスケーティングからは天上界への階段ではなく、地下の死者からのうめきが聞こえ、その姿が浮かんでくる。

土と化してしまった死者の屍のイメージを「レクイエム」から払拭してしまったら、その中身は空疎になるだろう。今では屍になり、蛆さえも沸いている死者の肉体。鎮魂とはそんな死者を悼むもののはずだから。地から聞こえ出るうめき声をくみ上げるものであるはずだから。こういう死者の姿、そしてそこから発せられる超越者(神)に向けての「問い」。アーティストでありメディアの羽生結弦が身体全体で、スケーティングでそれを表現する。

私がこの映像を観て最初に感じたのが「あっ、土方だ!」だった。土方巽。暗黒舞踏(海外では「BUTOH」)の創始者。残念ながら実際には観ていない。その継承者たちから、彼の「舞踏」がどんなものだったか想像するしかない。「天と地のレクイエム」の作曲者を調べて、納得した。この曲を作曲した松尾泰伸氏はWikiによると、「舞踏グループ『白虎社』のインドネシアツアーの音楽を担当」と解説されていたから。彼は今でも白虎社と強い絆があるようである。「白虎社」はもちろん(暗黒)舞踏の一派。松尾泰伸氏は熊野や高野山に自身の曲を奉納しているのだという。これにも納得。

この映像をみたのがBS朝日放送の「ドリームオンアイス」の放映直後だった。
放映された「SEIMEI」にも感動したけど、このレクイエムには胸がつぶれそうな想いがした。それでいてものすごい高揚感があった。羽生結弦というスケーターが人という枠を超えて、神に近づいた、神との交霊の場に行き逢わせたのだと感じた。その場で感じたことを断片として書きおいたのだけど、文章にしてしまうのにはなにか気後れした。生半可な文を捧げるのは失礼になるような、そんな気がして。「襟を正して対峙しなくてはならない」、そんな思いが今でもある。そして思ったのは、やっぱりこの神戸の「ファンタジーオンアイス」を実際に観ておくべきだったということ。スケートファンでないので躊躇したのが残念。次回は外さない。