yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

猿之助 X 中車の 『あんまと泥棒(あんまとどろぼう)』五月花形歌舞伎@明治座5月18日夜の部

以下、歌舞伎美人」からの引用。

<配役>
泥棒権太郎    市川 猿之助
あんま秀の市   市川 中車


<みどころ>
 夜更け、泥棒権太郎は、あんま秀の市の家へ泥棒に押し入る。権太郎は、秀の市が高利貸しの烏金を貯めていると噂を聞きつけ、秀の市に金を出すように迫る。しかし、秀の市はしらばくれて、利息はもらっているもののほとんど貸し倒ればかりだと言い逃れる。権太郎は鐘のありかを白状させようとするが、秀の市はとぼけるばかり。
 やがて、二人は台所にある焼酎を飲み始める。秀の市が泥棒は命と引き換えにしても割のいい仕事なのかと問いただすので、権太郎は、以前は堅気の八百屋だったものの、泥棒業に転落した身の上を語る。これを聴いた秀の市は、権太郎にもっと世渡り上手にならなければいけないと説教を始める。そのうち、日が昇り始めるので、権太郎が家の中を物色し始めると、位牌が出てくる。すると、秀の市は死んだ女房に仏壇を買ってやりたいが、金が貯まらないと言って涙を流す。これを気の毒に思った権太郎は、盗みを諦め、秀の市に金まで与え出ていく。これに感謝する秀の市だが…。

 この作品は、昭和26(1951)年にNHKのラジオドラマとして放送されたものを後に舞台化しました。登場人物は、盲目の按摩と泥棒で、二人の対話の妙だけで物語を展開しているところに面白さがあります。あんまの話術にのらりくらりとはぐらかされた泥棒は、あんまからの説教を受け、ついには金まで恵んで退散します。したたかなあんまと気の言いい泥棒という組み合わせがみどころの舞台です。

めっぽう面白かった。もともと今回の遠征はこれを観るためだったのだが、その甲斐があった。

中車の舞台、今までにあまり感心したことがなかったが(スミマセン)、これはどれほど褒めても褒めたりないほどの、鬼気迫る、それでいて滑稽味のあるあんま秀の市だった。彼の映像作品、とくにテレビでのそれを観たことがほとんどないので、人が「ものすごいキャラ立ちのする俳優さんだ」と言っても、「へぇー」ぐらいの感じだったのだけど、それが正しい評価だったことがよーく判るこの役だった。もともと現代劇の人だから、このような現代劇風のお芝居は自家薬籠中のものなんだろう。猿之助が終始中車に喰われ気味だったのが、意外といえば意外。彼のことだから、はまり役を演じる中車に華を持たせたのかもしれない。

泥棒に一杯食わせるしたたかさ。秀の市は泥棒の権太郎が押入からひっぱりだした位牌を、自分の女房のものだと嘘をつく。「なんとか墓を建ててやりたくとも、貧乏なので出来ない。貧乏が恨めしい」とまことしやかに語る秀の市の作戦に、人の良い権太郎はすっかり乗せられてしまう。挙げ句の果てに他家で盗んで来た金まで、秀の市に恵んでしまう。ここの掛け合い、二人の名優の丁々発止のバトルで、見応えがありました。

権太郎が去ったあと、床下に隠してあった壷を引っぱり出し、中の金貨を数える秀の市。このときの中車さんの演技、みごとだった。金しか頼るものがなく、守銭奴にならざるを得ないその境涯の哀しさも、さりげなく描き出していて、ホント、秀逸だった。彼の高笑いで終わるのだが、そこになんともいえないペーソスを醸し出せるというのは、彼が役者として一級だから。

一級の役者のこういう真に迫る心理合戦の舞台、なかなか観れない。歌舞伎では心理を描くことは普通はしないから、その点ではまさに現代劇。それをたまたま同じファミリーのもとに生まれた従兄弟同士が、これ以上ない凄まじさで演じきった。お見事!二人のこういうバトル、もっと観てみたいと切に願う。

この明治座での公演、「花形」とあえて銘打っているところに、猿之助の未来に向けての「決意」というようなものを強く感じる。若手が、それも力のある若手が「花形歌舞伎」で活躍するようになってきている。それに「大御所」、「中堅」としてではなく、彼らと同列に立って、競い合い、切磋琢磨し合おうという彼の意図が明瞭に現れているように思う。こういうhumbleなところ、いかにも彼らしいし、ステキである。

このような姿勢は玉三郎にも共通するものである。この二人は永遠に芸の求道者であり続けるだろう。明日、松竹座で玉三郎の『アマテラス』を観るが、きっと新たなる感動に出会うことだろう。