yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『蒼い炎』by 羽生結弦(扶桑社、2012年4月)

『蒼い炎』は羽生結弦選手への聴き取りを通して構成された形式になっている。驚かされるのは16、17歳にしかすぎなかった当時の彼が選ぶ言葉の的確さ。「この人、どんだけ頭いいの!」と唸ってしまった。その「若さ」にして、自身の演技のみならず心理状態まで精確に分析できている。それも甘えを許さない鋭さで。だからこそ、その2,3年後にオリンピック金メダル、グランプリ優勝という十代選手には考えられなった奇跡が可能になったのだ。

さきほど「世界フィギュアスケート国別対抗戦2015」に参加する選手たちの記者会見があったようで、youtubeにアップされていた映像を観たのだが、その中でも彼の冷静さ、聡明さは抜きんでていた。そのまま活字にしてもまったく問題のない瑕疵のなさ(私としてはこういう大会には出ず、ゆっくりと静養して欲しいのだけど)。彼のこういう面は日本でよりも海外での方がより評価されるだろう。日本だとデレデレした態度のほうが「かわいげがある」なんて尊ばれたりするから。彼が練習場所にカナダを選んだのはこれ以上ないほど正解。

海外勢と闘って行くためには、しかもそこでトップになるにはこの冷静さが不可欠だろう。羽生結弦選手が他の日本選手にないものがあるとしたら、この左脳的とでもいうべき理性が顕著なこと。そして、彼をそれ以上の超人にするのが右脳的な感性の繊細さ、美的感覚の高さである。右脳的だというのは、彼がイメージトレーニングを常にしているというところにも窺える。この両面を兼ね備えているから、彼の演技はアスリートのそれを超えたアーティストのものになる。彼自身が「アスリートよりもアーティスト」を目指すと言明している。震災後、練習場所を奪われた困難な中、アイスショーに出まくっていたころ、インタビューに以下のように答えている。

『白鳥の湖』はこの震災があったからこそ完成できた。それ以前の滑りとは思いが全然違う。フリーの『ツィゴイネルワイゼン』もそうです。試合で滑っている時も「表現したい」という思いはありました。[略] 千秋楽公演ではなんだか自分の中では違ったんです。自分でも説明できないけれど、初めて『ツィゴイネルワイゼン』に感情を込められた、って感じた。どんな感情かは言葉では説明しにくいもの・・・身体でしか表現できないものだけど、何かが僕の身体からにじみ出ていたんです。

以前、インタビューで聞かれたことがありましたよね。自分はアーティストか、アスリートかって。そのころから自分は、絶対アーティストになりたい、と思ってた。でもアスリートはアスリートですごさがあります。力強さや高度なジャンプ技術や・・・そんなアスリートの技術は当たり前に持っていて、さらにアーティストになる。

これが若干16歳の羽生結弦のことばである。なんという成熟。だのに『ツィゴイネルワイゼン』の際のあの超絶美少女も真っ青のかわいさ、美しさなんですからね。

この他にも羽生結弦像が行間からワーッと立ち上がってくる箇所が各ページにあり、それらがあまりにも圧倒的な力で押し寄せてくるので、本を置いてしばらく気を落ち着けなければならないほどである。別稿で続きを書きたい。

蒼い炎

蒼い炎