yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『美女と野獣』ジャン・コクトー監督作品 (仏、1946 年)

6月のイギリスの演劇学会での発表に使う作品に、三島由紀夫の『近代能楽集』から「綾の鼓」を選ぼうと考えて、いろいろ調べた。その結果、コクトーの『美女と野獣』の影響を三島が受けたのだと仮説を立てた。

あまりにも有名なこの作品ではあるけれど、どういう形であれみたことがなかったので、amazonでDVDを入手した。ただ、発表の方は結局プレゼンにそのまま使えるyoutubeに映像が能ヴァージョン、三島ヴァージョンもアップされている「葵上」に変更してしまったのだけど。

いまごろになってようやくこの作品を観る時間を捻出できた。三島はコクトーのファンで、実際にフランスに赴いたときに彼に会い、インタビューまでしている。二人とも同性愛者である点では、たしかに共通してはいるけど、いずれとも強烈な個性の持ち主で、話をするにしても互いにかなり困ったのではないかと、想像している。

この『美女と野獣』、めっぽう面白かった。まるで舞台作品をみているよう。あの『天井桟敷の人々』が面白いのと同質の洗練を感じた。さすがフランス。この人たちのオシャレ度、ならびにウィットのセンスは、なんといっても世界一だろう。

内容については、Wikiなどに当たったら、即出て来る。そのしばりの枠を越え出るのが、映画の白黒画面に展開する世界。アレゴリーとして読むべきなんだろうけど、それをはみ出すなんともいえない「人間くささ」。この人間くささはフランス映画につきもののように思う。

結論としていえば、「綾の鼓」と『美女と野獣』の共通項は見いだせなかった。でもコクトー的な美学が、劇のテーマである「愛と死」に重くのしかかっていたのも事実だった。それはそのまま「綾の鼓」のテーマでもあった。三島とコクトーの親近性を理解し、そのままなんらかの形でアウトプットしている人たちがいまだにいるということが、「世界の七不思議」のような心持ちになっる。

野獣はベルの愛のおかげで、最後に美しい青年に代わるのだが、精神分析学的にはいろいろな解釈が可能である。とくに野獣がベルに言い寄っていた兄の友人に「変貌」するなんて、それこそ色々に読めそう。精神分析をしたくなるのは、これが白黒のモノクロームであるということも関係しているかもしれない。カラーにしてしまったら、ぶちこわしになるだろう。