yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

初春文楽公演 国立文楽劇場開場30周年記念@国立文楽劇場1月14日第一部

すばらしかった!文楽に新しい地平が拓けたのに立ち会うという、貴重な体験だった。その証左は観客動員数に如実に現れている。

大御所の死去、引退等により、さらには橋下市長の文楽予算削減の発言によって引き起こされた危機感により、今まで前面に出て来ていなかった(おそらく出たくても出るのを許されなかった)中堅、若手が前に出られるようになった。

浄瑠璃(義太夫)語りも人形遣いも一人前と呼ばれるのに、長い訓練を必要とする。最近の若手の台頭を見る限り、「下積み時代」にきちんとした訓練を積み重ねて来ていたと分かる。それが一番うれしい。訓練、稽古はすぐに成果が出ない分、苦しい修行である。数年前までの文楽は閑古鳥が鳴いていたから、かれら学芸員たちの収入もそれに見合って、乏しかったであろう。歯を喰いしばってそれを生き抜いてきた人だけが、やっとスタート点に立てるのだ。ホントに地味な世界。歌舞伎の華やかな世界、スター役者のもてはやされ方とどうしても比べてしまう。

でもお客さんはバカではなかった。その魅力を知った人たちが、リピートしてくれるようになったのだ。数年前までの文楽は客が何を求めているのかということに、無関心だったように思う。退屈な演目のオンパレード。これじゃ若い人は来ないだろうと思った。カルチャースクールのようなところで「勉強」した人か、あるいは、自分の「教養」を誇りたいがために見に来る教師たちなんてところが、観客の大半を占めていた。大半が高齢者。国公立学校(小・中・高)の教師は半額程度の割引が使えるので、彼らの数がかなりを占めていたのではないか。私は教師がダイキライなので、文楽劇場に行く度に、一見して教員とわかる人の集団には引いた。東京の文楽の観客は(私の経験では)こんなことがなかったように思う。もっとばらけていた。大阪の文楽が衰退の一途を辿っていたことの原因の一つが、この「偏り」だったと思う。

第1部
花競四季寿(はなくらべしきのことぶき)
 万才・海女・関寺小町・鷺娘
お正月らしい華やかな小品集。「万才」は超豪華版。筆頭三味線が鶴澤清治なんですからね。清治さんは最近は呂勢大夫さんと組むことが多い。呂勢大夫に続くのは芳穂大夫、希大夫、靖大夫、咲寿大夫という新進気鋭の大夫たち。これで悪い筈はない。呂勢さんが小さくみえるくらい、全員身体の大きな大夫ばかり。だから合唱は迫力満点。

「海女」は能、歌舞伎の「松風」を思わせる。深い哀愁の中にも艶っぽさが。

「関寺小町」は能でもおなじみのもの。九十歳になって、かっての美貌はどこへやら、今や子供にまで「汚い」と罵られる老婆に成り果てた小町。今更ながらに、かって彼女のひどい仕打を嘆きつつ死んで行った深草少将を思いだし、悔悛の思いにかられている。昔の艶聞の思い出は、彼女を一瞬生き生きとさせる。唐突に登場する蛸が笑わせます。小町に付いてまわるエロティシズムの象徴として登場したのだろう。エロティックな夢に耽ったのもほんの一時。小町は元の老婆に戻り、庵に帰って行く。文雀さんを久しぶりにみた。彼の姿と小町とが一体化していて、胸に迫った。

「鷺娘」はやっぱり玉三郎のそれを連想してしまう。人形になると抽象度が高くなるのは事実。人間の肉体を一旦括弧に括ってしまうには、人形振りが必然の手法であることを納得させられた舞台だった。

以下に公演チラシ(出演者/解説)をアップしておく。