yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「蜘蛛の拍子舞(くものひょうしまい)」 in 壽初春大歌舞伎」@歌舞伎座1月3日昼の部

「蜘蛛の拍子舞」花山院空御所の場。以下「歌舞伎美人」より。

<配役>
白拍子妻菊実は葛城山女郎蜘蛛の精   玉三郎
源頼光                七之助
渡辺綱                勘九郎
坂田金時               染五郎
碓井貞光               弘太郎
占部季武               猿四郎



<みどころ>
妖気漂う美しい白拍子の正体は…
 物怪(もののけ)が現れるという無人の御所。その検分のために勅命を受けた源頼光は、家来の渡辺綱らを引き連れ滞在しています。急な病にかかった頼光のもとに、妻菊という美しい白拍子が現れます。病の慰みに舞を披露しますが、灯火に照らされた妻菊の影が蜘蛛にみえるので、頼光と綱が討ちかかると、妻菊は千筋の糸を繰り出し、忽然と姿を消します。この白拍子こそ実は葛城山の女郎蜘蛛の精だったのです。本性を現した女郎蜘蛛の精は、頼光たちに襲いかかり…。
 華麗な大立廻りや、最後には坂田金時の押戻しが登場する、歌舞伎の醍醐味溢れる舞踊劇です。

番附によると、平安期の武将、源頼光とその家臣の四天王の土蜘蛛退治を題材にしたもので、天明元年(1781)11月江戸中村座の顔見世狂言、『四天王宿直着綿』の所作事として演じられたのが初演だとのこと。

もともと歌舞伎には「拍子舞物」とよばれる一系列があるそうで、これもそれに連なったものだという。長唄の曲は残っていたものの、舞踊としての上演が途絶えていた。それを六世歌右衛門が復活上演したのが機になって、上演されるようになった。

私が気になったのが、「蜘蛛の舞」という語。「蜘蛛舞」は「放下」等とともに若衆歌舞伎の時代に四条河原を賑わせていた見せ物曲芸の一つだという(守屋毅著『京の芸能』、中公新書、145—151頁)。蜘蛛舞そのものは高いところに綱を渡し、その上で芸をみせるものだったらしい。今の大衆演劇で残しているのは春陽座のみか。それも最近はやらないようだけど。四条河原ではその曲芸の合間に、狂言を演じたともいわれている。今ある歌舞伎が、こういう様々な形態の芸をとりこんでいったという仮説を立ててみることは可能だろう。守屋氏によると、歌舞伎の「怨霊事」は、こういった曲芸系の延長線上にあるものだという。これも説得力がある。というのも、まさにこの「蜘蛛の拍子舞」は怨霊事だから。

「蜘蛛の拍子舞」の最後の立ち廻りは確かに圧巻だった。あの美しい玉三郎がものすごい形相の鬼になるのだから、それだけでもショック!である。その女郎蜘蛛を退治しようととりかかるのが、すべて若い侍。まるで女王蜂と働き蜂の立ち回りのよう。玉三郎の動きが他の役者に比べると、いささか重いのが少し気になった。あの重い衣裳を着ての立ち回りだし、年齢からいえば、これでもスゴイのひとことですけどね。