yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」in 「新春浅草歌舞伎」@浅草公会堂1月2日第一部

以下、「歌舞伎美人」から。

「奥殿」
<配役>
一條大蔵長成:中村 歌昇
常盤御前:中村 米吉
八剣勘解由:中村 吉之助
鳴瀬 :中村 芝のぶ
お京:中村 児太郎
吉岡鬼次郎:尾上 松也


<みどころ>
阿呆を装う一條大蔵卿の真意とは…。平家への復讐心を心に秘める常盤御前と源氏方の吉岡鬼次郎、お京夫妻らが絡み物語が展開していく重厚な時代物の名作です。

2012年12月の国立劇場での『鬼一法眼三略巻』中の「檜垣・奥殿」の場では吉右衛門が一條大蔵卿を演じた。翌年、2013年3月、新橋演舞場で染五郎が大蔵卿を演じた。どちらも観ているのだけど、ブログ記事には上げていない。記録するということがどれだけ大事かと、今更ながら思う。

吉右衛門の大蔵卿はその「呆け方」が尋常でないことを推察させる何かを感じさせた。本心が顕れる最後には、観客が「やっぱりそうだったんだ」と納得した。この人物の奥の深さを窺わせる人物造型に成功していた。今では大蔵卿といえば、やっぱり吉右衛門のあの豪快な笑いが浮かぶ。その笑いにはこの人物の複雑な感情が、幾重もの襞になって畳み込まれていた。

染五郎の方は「呆け方」が」にあまり説得力がなかった。だからあえて記事にしなかったのだと思う。大蔵卿という人物の老獪さを出すには彼は若すぎたんだろうと思った。

で、今度の歌昇である。若干25歳。10歳以上年上の染五郎ですらあまり成功したといえなかったこの難しい役。若い彼に果たしてできるのかと危ぶんでいたら、これが見事に外れたんですよね。

「こんな古典中の古典を持ってきてどうすんの」と思ったんだけど、ナカナカ。普段の厳しい訓練の積み重ねと、家の霊とでもいうべき歌舞伎の伝統が一緒になって彼らの身体に棲み着いていたんですよね。それがはっきりとした形となって顕れ出た現場に立ち会うことができて、本当によかった。

番附に載っていた歌昇自身のこの役の解釈が非常に正鵠を射たものになっているところに、彼が頭がよく、しかも繊細な感性の持ち主であることが窺える。曰く、「阿呆のふりをして過ごさなければならない境遇の中にあって信念を貫き通し、訪ねてきた鬼次郎にすべてを明かして託し、また阿呆に戻っていく。そこに悲劇性を感じます。大蔵卿の気持ちが解き放たれるのって本当に一瞬なんですよね。その一瞬の輝きを少しでも出せればと思います。その意味でも最後の笑いは非常に大切なんだと思います」。もう完璧!大蔵卿の悲劇性をきちんと捉え、それが最後の笑いに収斂していることを理解しているなんて。脱帽です。初日なのにここまで深化させた演技が可能だったのは、彼の解釈が深いものだったから。この若衆七人の中では一番頭が良いのでは?

常盤御前の米吉も良かった。素ではどこかすっとぼけた感じのこのお方。女形では実にかわいいお姫さまになるんです。常盤というかなり複雑な人物も踏込んで演じていた。常盤の境涯に対する理解と同情とがなくてはこういう風に演じられなかっただろう。常盤は複雑な(そうならざるを得なかった)人物ではあるけれど、大蔵卿のような老獪さはない。この二人の対比も現代風にいうと芸能スクープ的な面白さがある。だから(?)常盤の場合はその悲劇性を強調しない方が、大蔵卿の悲劇性が際立つ。まあ、脚本を書いているのは男ですからね。そういう読みになっているんですよ。米吉はそこを踏まえて「律儀」に役を演じていた。

鬼次郎の松也とその妻お京の児太郎のコンビネーションもとてもよかった。やっぱり年齢が若い分、初々しいんですよね。血気に逸る鬼次郎、それをなんとか宥めようとするお京。この二人のイキがぴたりと合っていた。年齢の高い役者だと、「私が、私が」という自己主張が出ていただろう。そうなるとここまでの説得力がなかっただろう。

このいささか退屈なお芝居、初めて面白いと思ったのは、一重にこれら若い役者のお陰である。感謝。