yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

玉三郎演出の新作歌舞伎『幻武蔵(まぼろしむさし)』@歌舞伎座12月24日昼の部

歌舞伎にみえない前衛的な作品。玉三郎が演出をしただけのことはある。昼の部で一番革新的だった。斬新でシンプルな舞台背景が、玉三郎自身の舞踊、『春夏秋冬』をおもわせた。あるいは海老蔵が自主公演で披露した『はなさかじいさん』の舞台のシンプルな装置にも通じるものがあった。こういうウルトラ前衛を歌舞伎の、しかも歌舞伎座でみれるとは思わないなかった。でもここだから可能だったのかも。これだけの観客、もちろん古典的な狂言を「期待」してきている人が大半だろう。でも新しい試みを受け入れる柔軟さを持つ人も多くいるに違いない。だからこそできる「冒険」。この昼の部の構成がよく考えられていた。古典中の古典の演目の中にこの作品が入れ込まれていた。それも若手たちが主役で。これからの歌舞伎の一つの可能性を、玉三郎が示したかったような気がした。

なによりも脚本がすばらしかった。プロットは『天守物語』と似ていた。でも、鏡花的な「古風さ」が捨象され、活劇に近いような過激な展開になっていた。あらゆる場面が次々にわき上がる幻影に占領されていくのだが、それらの幻影の必然性が異次元的リーズニングになっている鏡花とちがい、きわめて合理的な解釈ができるものとなっている。もちろん鏡花のその超俗的、幻想的な舞台もすばらしいのだけど、現代人にはこちらの脚本の方がしっくりとくるし、分かり易いだろう。

演出ももとの脚本を活かしたものだったと思われる。でもそこは玉三郎。俗世界からつきぬけた異次元空間を(やっぱり!)現出させていた。照明、装置にそれを最大限描出させる工夫がみられた。玉三郎の歌舞伎を離れての活動がこういう形で結実してもいるのだろう。

配役については、玉三郎が「若い人にやってもらいたい」ということで、松也と獅童を指名したとのこと。彼の役者を見る目の確かさが裏付けられた。玉三郎自身も淀君の霊役で登場するが、ほんのいっときのみ。舞台を回すのは小刑部明神(実は富姫)の松也。

松也がホントに良かったんですよね。富姫というお姫さまなので、女形が演るところなのだろうが、最近は立ちを主にしている松也をあえてもってくることで、明神の圧倒的なパワーがくっきりと立ち上がった。武蔵との問答(対決)場面では、かなりの分量の台詞を、よどみなく、朗々と歌い上げて、秀逸だった。剣豪武蔵と対峙し、妖怪の力で武蔵をねじ伏せてしまおうと激しく迫るところなど、うなってしまった。

武蔵役の獅童も悪くはなかったけど、松也にかなり喰われていた印象だった。でもこれもある意味必然かも。武蔵が武蔵らしいパワーを出すところがないような設定なんですものね。どちらかというと守勢に回る役。動くのを得意としている獅童にはさぞやりにくかっただろう。

以下、「歌舞伎美人」からの配役、みどころをアップしておく。

森山治男 作
坂東玉三郎 演出

<配役>
   
宮本武蔵    獅童
小刑部明神   松也
千姫      児太郎
秀頼の霊    弘太郎
坂崎出羽守の霊 道行
宮本造酒之助  萬太郎
淀君の霊    玉三郎


<みどころ>
宮本武蔵が大天守で立ち向かう幻想の世界
 戦乱が終わり、徳川家による泰平が訪れた御代。天下の剣豪宮本武蔵は播磨国姫路城に招かれます。領主から妖怪退治を頼まれた武蔵は、その正体を突き止めようと天守閣の最上階を目指します。そこへ現れたのは徳川に敵対した淀君の霊たち。やがて武蔵はその背後に、この地の地主神である小刑部明神がいることに気づきます…。
 宮本武蔵が兵法者としての道を究めるために自らと向き合う姿を描いた新作歌舞伎です。姫路城の大天守で繰り広げられる幽玄夢幻の世界をお楽しみください。

番附によると、この作品は平成19年3月、国立劇場で上演した『蓮絲恋曼荼羅』の作者、森山治男が『妖怪武蔵』というタイトルで書き下ろしていた作品だそうである。古くから伝わる小刑部明神の伝説にまつわるもので、姫路城がその舞台となっている。泉鏡花の『天守物語』もこの伝説を題材にしている。玉三郎はこの森田の作品をいつか舞台化したいと考えていたのだけど、なかなか叶わず、今回実現の運びとなったという。今回森田に連絡を取ったところ、彼は既に鬼籍に入っていた。玉三郎、さぞ残念な気持ちだっただろう。

見終わったあと、迫りくる思いにみたされ、圧倒されて、しばらく動けなかった。この感動をぜひもう一度味わいたい。東京に住んでいれば、即可能だったのにと、残念。