yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

十月花形歌舞伎『GOEMON』@大阪松竹座 再訪 10月22日夜の部

10月11日にも観て、記事にしている。

前回は三階席だったのだが、この日は一階席、それも花道すぐ傍の席だったので、見える光景がずいぶんと違っていた。どちらもぞれぞれに利点があった。でもやっぱり一階席の花道横でみる芝居はそれなりの値打ちがあることが分かった。松竹座は歌舞伎座ほどばかでかかくないので、三階席でも十分に舞台は近い。でも大衆演劇の小屋を「経験」してしまうと、やっぱり舞台が遠く感じてしまう。金丸座等の昔の芝居小屋はその点からはもっとも昔の芝居の雰囲気を残しているのだろう。残念ながら金丸座には行ったことはないのだが。熊本の八千代座はたしかに舞台と観客の距離は近かった。

まず、舞台に設えられたさまざまに変貌する躯体が三階席でみるより、ずっと大きく見えた。より迫力があった。西洋演劇風に倣って幕を使っていなかったので、この躯体が舞台を回ることで、場面転換がなされるという仕組み。「(システィナ)礼拝堂」で演じるという前提がもともとあったので、幕が使えなかったのだろう。でもそれを逆手にとって、この躯体はみごとに活きていた。三階席よりも一階で観た方がこの躯体の必然性が実感として分かった。

役者が花道を通って行くので、手が届く(?)ところに彼らの存在を感じれるというのは、遠くからオペラグラスを通してみるのとは違った感慨がある。親戚でも友人でもないのに、「ちゃん」づけで役者名をよんでみたくなる、そんな気持ちになる。愛之助も壱太郎も、いままでよりより親しみを感じたのはその所為だろう。

あらためて「スゴイ!」と感心したのが、愛之助の「冒険」魂。チャレンジ精神。こんななんでもあり」の舞台を歌舞伎で観たのは初めて。その点でも猿之助のスーパー歌舞伎、『空ヲ刻ム者』をはるかに凌駕していた。そのなんでもありの素材を自由に組み合わせ、意表を突きながらも整合性がしっかりとあるように設えなくてはならない。元祖歌舞伎の精神たる遊び心、もっというなら観客をいかに喜ばせるかという熱意、こういうものがひしひしと伝わってきて、笑いながらも、涙が出そうになった。

フラメンコを踊る場面を設定したのは、斬新。愛之助氏、けっこうお上手だった。対するお国役の壱太郎さんのフラメンコダンスにも感心した!

それと音楽、照明がすばらしかった!これらはすべて西洋の演劇伝統、そして現状を現出させたものだった。水口一夫さんの脚本、演出のおかげだろう。前の記事でも褒めたけど、まだ褒めたりないほど。

観客も感動。スタンディングオベーションがあった。残念ながらカーテンコールはけっこうアッサリ目だった。