yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『鳴神』たつみ演劇BOX@京橋羅い舞座2014年9月20日昼の部

この『鳴神』は第二部の舞踊ショーの最後の20分を割いてのものだった。この日のお芝居は長谷川伸の『沓掛時次郎』で、それだけでも十分意欲的なのに、この『鳴神』が舞踊ショーのハイライト部を飾るというんですからね。たつみ座長のこの公演にかける意地のようなものが窺える。ただただ圧倒された。

かなり後ろの席だったので写真を撮っていないのだが、運良く(?)「真っ赤なiPodはいつも一緒に」さんのブログにたつみ鳴神のこの最後の場面の写真が載っていた。上人が怒れる神に変身するところは本家歌舞伎でも圧巻のシーン。たつみ鳴神も負けていない。鬘は怒りを表象した「「毬栗」という逆立ち髪のものに替わり、顔にも隈取り。そして衣裳も「ぶっ返り」。顕れたのは白地に炎模様の衣裳。見得を切ってその激しい怒りを表現する。

その師匠のサマをみて慌て、おろおろする所化たち。所化には東映の役者さんたちも加わっていて、より本格的に。所化たちが崖に登って行く上人の後をついて行く場面では、所化の一人がとんぼを切って崖を飛び降りる。東映の役者さん(お名前が分かりません)の一人がこのこのトンボきりを演られて感動。歌舞伎臭がプンプンした!上人の怒りは収まらず、所化の一人を殺して(ここで本家と同じく人形を使っていました)それを放りなげる。どこまで本格的なの! 圧巻!鳥肌が立った。

本来なら1時間を優に超える演目。それを極端に短くしたわけで、「それで一体大丈夫なの?」なんて心配したのは杞憂だった。たしかに雲の絶間姫が上人を「落とす(堕とす)」ところはかなり唐突な感じがしたけれど、その後の急展開の部分は省略なしのもとのままだったので、問題なかった。というより、この演目のキモはこの終わり部分にあるわけで、そこをハイライトすることで、芝居の全体像がより正確に浮かび上がっていた。こういう編集の仕方、たつみさんならでは。歌舞伎ならこんな「苦労」はしなくても済む。だが、大衆演劇の舞台に乗せるにはなにがしかのアダプテーションが必須。しかも省いてもそれなりに一つの完成体として齟齬がないように、舞台化しなくてはならない。今回の省略はこれ以上ないほどうまく機能していた。

歌舞伎専用の小屋でもないところで、ナイナイ尽くしを逆手にとり、いかにも手作り感のある舞台装置が披露された。歌舞伎座の豪華なセットも良いけれど、この羅い舞座セットの方がずっと親近感がわく。これで役者、舞台、そして観客の距離が一挙に縮まった。舞台を媒介にした役者と観客との一体感が生じた。だから幕切れの鳴神上人の飛び六法のひっこみのところでは、(鳴神上人が乗り移ったかのような)たつみさんの一挙手一投足に観客の視線が集中、彼のイキに観客のイキがピタリと合わさった!この瞬間、何かが起きた。それまで固唾をのんで観ていた観客がほっとため息をついたのが聞こえた気がした。さらにそのあとの賞賛の声は、はっきりと聴き取れた。

歌舞伎でも「感嘆」のため息が聞こえないこともない。でも、この日の観客のため息ほどの深さがないと思う。私が『鳴神』を観たのは1994年の歌舞伎座でだった。鳴神上人は幸四郎、絶間姫を三代目鴈治郎(現坂田藤十郎)。美男美女の組み合わせだったけれど、たつみ版ほどの感慨はなかった。きっと歌舞伎(市川宗家)十八番としてルーティン化してたからだろう。

たつみさんの場合、これが初めての試みだったわけで、これに「賭ける」パワーが全開だった。その点が決定的違い。舞台と観客とがひとつになった。歌舞伎の『鳴神』にはそういう一体感は薄かったように思う。当時の私はこういうエロっぽい歌舞伎演目を観るのは初めてで、それなりに感動したのだけれど。歌舞伎役者の職人的な役柄の演じ方も「あんなもんだ」と思っていた。だからこのたつみ座長の挑戦にホント、感動したし脱帽した。

たつみさんの口上によれば、たつみさんの上人、ダイヤさんの絶間姫で板に乗せるのが、おとうさまの小泉のぼるさんの「悲願」だったそう。そのおとうさまの期待にみごとに応えられたことになる。