yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『怪談乳房榎(かいだんちぶさのえのき)』八月納涼歌舞伎第三部@歌舞伎座8月23日

訪米歌舞伎凱旋記念
三世實川延若より直伝されたる
十八世中村勘三郎から習い覚えし『怪談乳房榎(かいだんちぶさのえのき)』、中村勘九郎三役早替りにて相勤め申し候」というものものしい但し書きが付いている。「歌舞伎美人」からの「配役」、「みどころ」は以下。

<配役>
菱川重信/下男正助/うわばみ三次/三遊亭円朝 勘九郎
重信妻お関      七之助
茶店の女お菊    小山三
松井三郎/住職雲海 亀 蔵
磯貝浪江      獅 童

<みどころ>

◆早替り、本水、大立廻り、随所に見せ場のあふれる夏芝居
 絵師菱川重信には、美貌の妻お関と赤ん坊の真与太郎がいます。偶然、お関の窮地を救った浪人磯貝浪江は、一目ぼれをしてしまい、重信に弟子入りをします。そして重信が南蔵院本堂の天井画の龍を描くために留守をした間に、お関を我が物にしてしまうのでした。そんな浪江の前に現れたのはうわばみ三次。浪江の旧悪を知る男で、金の無心に訪れたのです。仕方なく三次に金を渡した浪江は、下男正助を仲間に引き入れ、ついに重信を殺害します。一方、南蔵院では、重信が霊となって現れ、画を完成させると、忽然と姿を消して皆を驚かせるのでした。悪業を隠してお関と夫婦になった浪江は、今度は正助に真与太郎を亡き者とするように命じ…。
 三遊亭円朝の口演をもとにした怪談噺で、今回は米国ニューヨーク公演の凱旋記念となります。早替りをはじめ、本水を使った滝壺での大立廻りなど先人の思いを受け継ぎ、さらに練り上げた清新な舞台をご堪能ください。

まあまあ面白かったが、期待したほどではなかった。これだと海老蔵の『伊達の十役』や愛之助の『GOEMON』の方がはるかにワクワクさせた。それは勘九郎、七之助の父、勘三郎の『夏祭浪花鑑』の「NY凱旋公演」のときにも持った感慨だった。「期待はずれ」。

今年、NYで7月7日から12日までの公演だったようである。だいたいが「凱旋公演」なんて銘打つのはナンセンス。そもそもが「演劇祭」(夏のニューヨーク恒例の「リンカーンセンター・フェスティバル」)の参加作品だったわけであり、NY の観客が喜んだというのも、(作品単独で打ってきたものではなく)演劇祭の一作品として(多分に社交辞令も入れて)褒めたのだろうから。New York Times の評もそこのところを差し引いて読まなくてはならない。日本でそれを分かっている人はあまりいないようだけど。歌舞伎に関わる人間たちは自身の演劇をいまだ「異境の演劇」扱いにしているのでないか。まあ、歌舞伎の文脈と西欧のそれとは月とスッポンというか、決定的なギャップがあるから、仕方ないといえば仕方ないのだけれど。向こうの人間に「分かってもらおう」なんてせずに、逆に「こちらの文脈で読んでみろ」ぐらいの強気の姿勢で行った方がいい。初手から理解してもらおうなんて思わず、「こちらの懐に入って来い」と見得を切った方がいい。それもヘンに「エキゾティシズム」で売り込まない方がいい。

作品が乗ったローズシアターなんて聞いたことがないと思ったら、リンカーンセンターの劇場(こちらは「Vivian Beaumont Theater」という)ではなく、その南のコロンバス・サークルに面する劇場だそう。2004年竣工だそうである。写真をみるかぎり、Vivian Beaumont Theaterよりヨーロッパのオペラハウスの内部に近い。でも歌舞伎を演るにはかなり問題のある劇場に思う。舞台を設営するのも大変だっただろう。

2004年の平成中村座公演の折にはNYやら周辺地域に住む日本人が大挙して押し寄せたらしいから、今回もそうだったのでは。だから「大喝采を浴びた」云々というのも、話半分で聞いた方がいい。舞台設営だけでも莫大な費用と手間がかかっているから、しかもそれは劇場の舞台装置、大道具にはないものだから日本から持ち込まなくてなならなかったはずであり、その辺りの事情を鑑みて、他の西欧の参加作品よりも「贔屓目」で観てもらえたのでは。

勘九郎の「早替わり」は海老蔵のそれに比べると迫力がなかった。役の分け方も海老蔵の方がはるかに上手かった。だいたいがこの芝居で一人で何役もやるという意味が分からない。NYの観客がそれをappreciateしたとすれば、単なる物珍しさだったのでは。『伊達の十役』のように悪玉・善玉のみならず男・女役も替わるというのなら、たしかに面白いだろうけど。そしてなにか人の心の闇、深淵をのぞかせる仕組みとして有効だろうけど。

七之助は楚々とした、そして人間(女ではない)としてのインテグリティにはいささか欠けるお関を上手く演じていた。

ワル役の浪江の獅童。こちらもそこそこだったのだけど、なにかパンチが効いていないような感があった。そういえばこの芝居を一言でいい表すなら、「ものものしい装置にもかかわらず、また早替わりにもかかわらず、どこかパンチが効いていなかった」である。