yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

壁ノ花団『そよそよ族の叛乱』@伊丹AI・HALL 8月31日

『そよそよ族の叛乱』は別役実作で今回の演出は水沼健。

別役実作品は、『マッチ売りの少女』しかきちんと読んだことがない。それもペンシルバニア大の大学院で現代演劇のクラスを履修していた折に、不条理劇をテーマにペーパーを書くことになり、大急ぎで読んだのだった。別役の作品集にざっと目を通し、あまり食指が動かなかった。結局ペーパーの対象に選んだのは佐藤信の『翼を燃やす天使たちの舞踏』で、これがペーター・ヴァイス(Peter Weiss)の『マラー/サド』を下敷きにしていることを、その時知った。『マラー/サド』はその後ほどなくして、スワスモア大学のすぐ近所の劇場でみることができた。これは2011年にこのブログの記事にしている

別役の『マッチ売りの少女』と佐藤の『翼を燃やす天使たちの舞踏』を比べたとき、別役の方がはるかに「料理」しにくかった。だから佐藤を選んだのだ。どういったらいいのか、別役の作品には不条理劇によくあるダイナミズムが欠けていた。それが他の劇作家との著しい相違である。劇が淡々と進行するパタン。

そのとき寺山修司、唐十郎などのいわゆる「不条理劇」をまとめて読んだ感想は、動的作品であれ、そうでないものであれ、理屈っぽくて「ナンてしんどいの」。こんなのを延々と演じられたら、観客はどう反応するのだろうと観客に同情した。

今日の劇も「果たして最後までもつかな」と心配だった。でも招待券だったし、きちんと観なくては失礼になるので、真剣に観た。でも予想通り、かなり退屈した。

演じたのはアイホール専属の劇団、『劇団レトロスペクティブ』。たしかにいまどき「不条理劇」を上演するなんて、かなり「retrospective」。でもそこをあえて挑戦するという姿勢は、高く評価できる。不条理劇が出てきた社会的背景と今ではずいぶんと状況が異なっているから、それを意識しながら、そして今に中身を置き換えながら演出しなくてはならないのは、けっこう大変だろう。それを形にするイマジネーションの力がかなり要請される。それのみならず、観客の反応を予測し、それに合わせて、ときとしては意図的にそれを裏切りながら話を進行させなくてはならない。それもかなり想像力のいる作業である。

昨日の『いつのまにか、ちがう野原を歩いてる』の観客もそうだったのだが、観客はいわゆる知的な層。その点では歌舞伎等の観客より「高度な」隠喩、引喩、換喩等の修辞を駆使しても、ついて来てくれる。かなり決まったというか特定の種類の観客。今日の観客は昨日よりも年齢層はかなり若め。20代が圧倒的だった。でもやはりというか、観客の反応は昨日よりもオトナシメだった。「不条理劇」はダイジェストするのに時間がかかるからだろう。私の正直な感想は「Once is enough」。

演劇としては楽しめなかった。演劇は「レクチャー」ではないので楽しむ要素がきわめて重要だと思っている。私が大衆演劇を演劇の原型だと評価するのはまさにその点である。別役の作品はひねりがありすぎる感を持った。でも役者のみなさんの一生懸命自分たちの解釈を観客に伝えようとする気持ちは痛い程よく分かった。だから次はおなじ「不条理劇」でも唐か寺山作品を選んで欲しい。こちらはエンターテインメント性がかなり濃いから。

以下は今日の演劇のサイトからの今回の公演についての解説。アイホールディレクターの岩崎正裕さんによるもの。

不条理劇を定義する方法を私は持ち合わせないが、私たちが生きる現代社会と、過去に書かれた不条理劇との親和性は、かつてよりも高まっているのではないか。

何も凡庸に、3.11以降の日本の風景をしてそのように語るつもりはない。震災を引き合いに出せば、現実感の喪失は神戸でも既知のことであるし、 もっと遡れば一瞬にして数万人の命が灰となった暴力を、私たちは知っている。当然のことながら、第二次世界大戦後の荒廃した精神の土壌からベケットもイヨネスコも不条理劇にたどり着いたのであった。本来この作法は、ある事象や事件に出くわしたときの「わからない」という感覚に由来して成立するはずだ。

ところが、今を生きる私たちは、どんな不可思議に直面しても、どこか「ありそうだな」という感覚から 出発してしまってはいないだろうか。

今回、現代演劇レトロスペクティヴでは、日本の不条理演劇のパイオニアである二人の作家の作品を取り上げる。安部公房の『友達』に登場する疑似家族・偽家族からは、尼崎で近年起きた連続殺人事件を想起することも可能だろうし、別役実の『そよそよ族の叛乱』からは、登場人物たちの心性において、STAP細胞の真偽に関わる人々の右往左往を導き出すことだって出来る。

もちろんそんなステレオタイプな切り口で上演されるはずはないが、私たちはすでに不条理な日常を生きてしまっているだろう。反転してそれを劇の萌芽と捉えるなら、真のリアリズムの到来ではないか。わからないはずの不条理を、わかってしまう私たちは、果たしてふしあわせな時代に立っているのだろうか。

そして、以下はプロジェクト、「現代演劇レトロスペクティヴ」についての解説。

現代演劇レトロスペクティヴとは
2009年度からアイホールが取り組んでいる「現代演劇レトロスペクティヴ」は、1960年代以降の、時代を画した現代演劇作品を、関西を中心に活躍する演劇人によって上演し、再検証する企画です。現代演劇の歴史を俯瞰し、時代に左右されない普遍性を見出すとともに、これからの新たな演劇表現の可能性を探ります。