yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『女殺油地獄』@国立文楽劇場開場三十周年記念 人形浄瑠璃文楽夏休み特別公演第三部@国立文楽劇場 8月4日千秋楽

午後6時開演で、ほぼ3時間の長丁場。間の休憩は15分のみ。演じる側も大変だろうが、観ている側もかなりの覚悟の要る公演。最近の文楽はこういう長丁場が多い。へたれの私はたいてい疲れ果ててしまうのだけれど、この日はまったくそういう「長さ」を感じさせない舞台だった。最近は床前の席を取ることができないので、大夫、三味線弾きの横顔をかなり間近でみることになる右側座席を取る。少し高くなっているので、劇場全体がよく見渡せる。そこから見ると、クライマックスの切では観客席にピーンと張りつめた雰囲気が満ちていた。大夫、三味線、人形遣いの舞台と観客とが一体となっているのが、ビンビンと伝わってきた。感動。

先日の第二部、『鑓の権三重帷子』でも同じ感慨を持った。舞台に漲るパワーが観客にも伝染し、この一体感が生まれたのだろう。このパワーは大夫、三味線、人形の遣い手が「若返った」ことからきているのは、間違いない。3年前とはまるで違っている。大御所が引退を余儀なくされ、世代交代が、それもかなりドラスティクなそれが起きた。若手たちは遠慮することなく、いままで溜めていた実力を発揮する場が与えられた。もちろん技巧的には大御所には劣るかもしれない。でもそれを補うパワーが彼らにはある。人形浄瑠璃の原点に還れば、それがエンターテインメントの源流の一つだったのはゆるぎのない事実である。「枯淡の味わい」ももちろん芸術的にみれば高く評価されるべきだろうけれど、それ以上に快楽面、娯楽の面は大切である。それには若い人のセンスと力とが欠かせない。一時は「お蔵入り」、アーカイブ入りになるかと思われた文楽が甦ったのは、まさにこの若いパワーに負っていると思う。

観客層も以前は年齢層が高く、教師(あるいは元教師)然とした人が多かったのだけれど、最近ははるかに若返ったし、教師っぽい人の比率が減じたように思う。いかにも「公立学校教師」といった風の人が減っている。大阪の公立学校(小・中・高)の教員はかなりの割引率で文楽公演のチケットを入手できた(今もそうだろう)ので、そういう「現象」があったのだと思う。私は教師 (in general) が嫌い。だから最近のこういう現象は大歓迎だし、嬉しい。


構成とそれぞれの段の(主要な)大夫/三味線は以下。

「徳庵堤の段」
咲大夫/富助

「河内屋内の段」
咲甫大夫/貫太郎
呂勢大夫/清治

「豊島屋油店の段」
咲大夫/清志郎(燕三さんが病気休演のため)

「豊島屋逮夜の段」
文字久大夫/清友

(主たる)人形遣い
お吉   和生
与兵衛  勘十郎
森右衛門 幸助
七左衛門 清十郎
徳兵衛  玉也
女房お沢 勘壽
おかち  一輔
太兵衛  文司

これ以外にも今までは表に出てこなかった若手が大勢出ていた。

『鑓の権三重帷子』で藤蔵さんと組んだ呂勢大夫さんはこの演目では人間国宝の清治さんと組んでいた。いろいろな人物の声音を使い分けて妙。一段と腕を上げていた。

呂勢大夫さんの「盟友」の文字久大夫さんも最後の締めの段を住大夫の弟子らしく瑕疵なく語った。

いちばん感動的だったのは、なんといっても咲大夫さんの切の段。こんなに上手い方だったのだと、あらためて認識。お父さまの名跡、綱大夫を継ぐんですよね。お父さまの名(私は残念ながら聴いていないのだけど)を継ぐことは「伝説」になっている山城少掾の系譜に繋がるということなんですよね。大変な重みだろうけど、彼なら、この実力なら立派に果たして行かれるだろうと確信した。