yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『鑓の権三重帷子』@国立文楽劇場8月1日

ずっと文楽で見たいと願っていた演目。歌舞伎では観たことがない。データーベースで検索したら1980年以来なかったよう。道理で。篠田正浩監督が岩下志麻、郷ひろみ主演で映画化した『近松門左衛門 鑓の権三』はDVDで観ている。でもそんなに高い評価ができなかった。岩下志麻のあの独特の発声がこの映画に嵌まっていないような気がしたから。『心中天網島』では良かったのだけれど。郷ひろみについてはほとんど覚えていない。

義太夫版で今回初めて観てみて(聴いてみて)、映画版とは印象がかなり違った。語り物だからもっとさらっとしているのかと思ったら、まったく予想が裏切られた。

今回の語りの段構成は以下。

浜の宮馬場の段
浅香市之進留守宅の段
 
数寄屋の段
伏見京橋妻敵討の段

また配役はpdfファイルで、画像としてリンクしておく

上の段でクライマックス部はもちろん「数寄屋の段」。ファイルにあるように大夫は呂勢大夫、三味線は藤蔵の組み合わせだった。予想に違わず素晴らしかった。呂勢大夫は以前よりも低めの声調になり、そのためか人物の複雑な心理をより的確に描けていた。とくにおさゐの悋気の口説き箇所、秀逸だった。唸ってしまった。理性ではいかんともしがたい情念の迸り。それをとぐろを巻くような螺旋状のうなりで表現。今も耳に甦ってくるほど。文楽の古いファンだとわかる隣席のとなりの年配の母娘連れが、「呂勢さん、ますますええ男やな」と囁きあっていたので、笑ってしまった。たしかにオトコマエ。こういう表現が可能になったということは、だいぶん渋くなってきていたということ。以前のカワイイ感じ(いい歳の大夫を捕まえて、スミマセン)が少なくなってきているのは残念だけど。

おさゐの悋気の口説き箇所を床本から書き出してみる。権三を娘の婿にと願っていたおさゐが権三とお雪とがすでにわりない仲になっていることを知り、わき上がる悋気を抑えきれない下り。

おさゐは一人縁先にわけも涙に袖ぬれて「エ、思案するほど妬ましい(略)お雪さまと権三様、内証しやんと締めてあるとは、エ、恨めしい憎らしい。稀男なればこそ、我が身が連れ添う心にて、大事の娘に添はせるもの。悋気もせいでは、やかいでは。思えば憎や腹立ちや(略)」と喰い切るばかり袖噛みしめ、身を打伏して、泣きけるが、やうやうに顔ぬぐひ「思へば思へば我が身の悋気も、ほんに因果か病気であらうか(略)」。

彼女は自身の悋気の理不尽さを自覚している。でもそれを抑えきることができない。娘はあくまでも彼女の恋情の代理で、彼女自身が権三に恋い焦がれていることがあまりにもリアルにその口説きから読み取れる。だから、伴之丞が「都合よく」彼女と権三の帯を手にいれ、それを口実に二人の不義密通を言い立てたのは、ある意味彼女の意にそっていた。実際にはそういう行為はその場ではなかったにしても、彼女の権三への執着がこの成り行きを導き出したともいえる。あるいは深層心理上では権三との「破滅」が彼女の欲していたことだったともいえる。帯は彼女の愛欲の象徴であり、それが露呈することはもちろん当時では死を意味した訳で、ここにエロスとタナトスとの(理想的な)融合がみられる。近松がここまで踏込んで女性の心理を赤裸々に描いていることに驚く。

だからこそ、以下のようにどこからみても勝手至極な理屈をつけて、権三を巻き込むのだ。

おさゐ 「二人は生きても死んでもさげすまれる身。江戸におられる市之進殿が女房を盗まれたと後ろ指を差されては世間に顔向けができぬ。どうせ死なねばならない命です。間男という不義者になりきって市之進殿に討たれて男の面目を立ててやってください」
権 三 「今腹を切っても市之進殿の面目は立つはず。死後に我々の潔白が判れば二人とも面目は立つ。生きて間男になりおおすのは口惜しい」
おさゐ 「口惜しいのは最もですが、あとで私たちの名を清めたら市之進殿は妻敵を討ち誤ったとして二度の恥をかくのです。思いがけない災難に命を捨てるあなたもいとしいが、三人の子をなした二十年の馴染みには私は代えられない。今、ここで女房じゃ、夫じゃと言うて不義者になって市之進に討たれて下さい。」
権 三 「鉄の熱湯が喉を通る苦しみよりも 夫ある女房をわが女房という苦しみは百倍、千倍・・・無念だが、こうなり下がった武運の尽き、もう仕方がない・・・そなたは権三の女房・・・」
おさゐ 「忝けない。お前は夫」
権 三 「エエ、いまいましい」

このあとおそらくおさゐは権三と思いを遂げることができた。記憶にある限り、映画版では二人が互いに思い合うようになった結果そうなったように描かれていた。富岡多恵子のスクリプトより近松の方が新しい。ちょっと意外。権三はあくまでもおさゐの怖るべき欲動のコマに使われたに過ぎない。だから、その渦に巻き込まれてしまっとことを観念しながらも、「エエ、いまいましい」と呟くのだ。その点で、近松作品の中でも著しく「新しい」、革新的な作品といえるのではないだろうか。

この日、金曜日にもかかわらず満員だった。右袖の座席で高くなっているため全体をよくみわたせたのだけど、いつものくすんだ印象ではなく、大学生やら若い世代がけっこう入っていた。橋下市長の「提言」が良い方向に働いてきたのかもしれない。また大夫、人形遣いともに大幅に若返ったことがその理由でもあると思う。

私はたいていは武智鉄二推奨の(?)床すぐ前の席を取ってきたのだけれど、最近ではそれが取れない。前はたいてい空いていたのに。次回からは劇場に解禁直後に出向き早めに席を確保するしかなさそう。