yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

澤瀉屋の『修禅寺物語』七月大歌舞伎@歌舞伎座7月13日第二部

この演目、2012年1月に大阪松竹座で観て、ブログ記事にもしているのでリンクしておく。

その折には夜叉王を我當、桂を扇雀、楓を吉弥、そして頼家を海老蔵という配役だった。今回の配役とみどころを松竹のサイトから拝借する。

<配役>
夜叉王:中車
源頼家 :月乃助
修禅寺の僧:寿猿
妹娘楓:春猿
姉娘桂:笑三郎
春彦:亀鶴


<みどころ>
孤高の人間の心理を鮮やかに描いた新歌舞伎の傑作
 

修禅寺村に暮らす面作師の夜叉王は、将軍源頼家から自分に似せた面を作るように依頼されていましたが、納得のいく面を作ることができずにいます。そのことに苛立った頼家は、夜叉王を斬りつけようとしますが、娘の桂が昨夜打ち上がった面を差し出します。夜叉王が、その面には死相が表れていると言うのも聞かずに頼家は持ち帰ります。しかし、その夜…。
 

岡本綺堂による新歌舞伎の代表作として知られ、夜叉王の職人気質と芸術家ならではの非情な精神を丹念に描き出しています。巧みな人間描写と名ぜりふの数々をご堪能ください。

リンクしたブログ記事にも書いたのだが、最後の場面が三島由紀夫の『地獄変』を彷彿させるものだった。もちろん三島作品の方が後だから、三島は『修禅寺物語』を意識していたのかもしれない。ただ、綺堂の方は娘の断末魔のさまを活写するというところに重点が置かれていなかった。そこに二人の劇作家としての気質の違い、審美観の違いが鮮明に浮かび上がる。

以前の海老蔵の頼家もなかなかのものだったけど、今回の月乃助の方が説得力があった。月乃助は新派の色男より歌舞伎のそれの方がずっとはまっているように思う。古典的な芸風なのだと気づかされる。「型」がしっかりとできる役者さんなので、歌舞伎の方が適している。頼家が良かったのは、偉大な父をもつ息子の弱さ、見栄を表現できていたからだろう。海老蔵はその存在自体がいやでも前に出てくるからこういう二番手役柄では分が悪い。

高慢ちきな姉娘、桂を演じた笑三郎は手堅い演技。この人を好きなので、贔屓目でみてしまう。でもちょっと年嵩の感は否めなかった。どちらかというと春猿と役を入れ替わっていた方が、互いにニンに合っていたかも。

修禅寺の僧役の寿猿は文句がつけようのない完璧さ。先日尼崎アルカイックホールでみた口上の頼りなさとはまったく違っていた。さすが役者。それも伊達に年数を重ねてきたのではない確かな手応えを感じさせた。

夜叉王の中車はこういう澤瀉屋の芸達者な面々の中に交じると、やっぱり弱い。というかムリがある。やたらと気張るので、鼻白んでしまう。まだまだ「道は遠し」かもしれないけど、それでもこういう役に挑戦する意欲を買いたい。

『地獄変』を思いだしたことで心乱されてしまった。玉三郎さん、あなたが露艸(『修善寺』では桂に当たる)役でこの三島作品を舞台化してくれないでしょうか。他のどなたでもダメです。もちろん演出もあなたで。切に、切に願う。