yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

もはや以前のNYの面影なし

それにしてもNYはもはや私が知っているそれではない。なんという変貌ぶり。とくに42丁目のタイムズ・スクエアから53丁目あたりまで。2001年、あの地獄のような同時多発テロ、「9・11」の数ヶ月後、傷跡がまだ生々しかったNYのこの辺りにきたことが最後だったことを、あらためて思い知った。当時、このあたりの「目抜き通り」を歩いている人は以前より減ったとはいえけっこういたけど、こんな混雑ではなかった。今回5月という月が観光シーズン最盛期だったせいもあるだろう。それとも、私自身の中に起きた変化なのかもしれない。あの雑踏と猥雑に対抗し、おもしろがるだけのエネルギーがなくなったということかも。NYは色んな意味で世界のどの都市とも違っていた。フィラデルフィアが「田舎」にみえたくらい。

旅の最後の土曜日、ニューヨーク近代美術館MoMAに出かけた。本当は予定には入っていなかったのだが、混雑した場所を避けるためと、ジャクソン・ポロックやらリキテンスタインマーク・ロスコなどに会いたくなって、出かけた。昼の2、3時に始まるブロードウエイやオフのマチネの芝居を観る予定にしていたのだが、42丁目から57丁目あたりまでのものすごい混雑を考えると、気が萎えた。あのあたりを一ブロック歩くだけで、疲れ果てた。アメリカ全土からの、そして他国からのおのぼりさんばかり。ニューヨーカーはほとんどいなかったのでは。ウンザリ。劇場もきっといっぱいだっただろう。ハーヴェイ・ファイアスタイン(Harvey Fierstein)原作の『Casa Valentina!』を観たかった。それが心残り。彼自身が出演していれば、なんとしても観に行っただろうけど。

翌日の日曜日に散歩がてら出かけたコロンビア大学の周辺、セントラルパークのウェスト、116丁目から100丁目あたりもかなり変っていた。地下鉄1線の116丁目駅の上がコロンビア大になっている。以下に写真を貼っておく。バーナード・カレッジとコロンビア大の正門。

このキャンパス、2001年に三島由紀夫のシンポジウムがあって、訪れたのが最後だった。そういえば、スピーカーは、ドナルド・キーン、キース・ヴィンセント、あと二人のアメリカの三島専門研究者という「豪華版」だった。キースと一昨年の12月に亡くなった友人とが彼の日本滞在中の研究仲間ということで、彼女から紹介され電話では話したことがあったのだけど、シンポジウムはそれより前だった。キースの発表は三島の同性愛についてだったと記憶している。その後、『批評空間』に原稿が出た。キーンさんの話は三島とのNYでの交遊についてのものだった。

このシンポジウム終了後、住んでいたフィラデルフィアに帰るのに時間があったので、大学前のレストランに入ったら、同じシンポジウムに出席した人、女性一人、男性二人の三人と隣り合わせになった。話がはずんで、女性はキーンさんのNYのアパートと同じアパートに住んでいるとのことだった。彼らの関心はもっぱら三島の自決のサマに限られていて、閉口した。

116丁目から59丁目のコロンバス・サークルまで歩いたのだが、色んなことが走馬灯のように浮かんできた。ブロードウエイに出て南へ下っていったのだけど、以前の危険な地域というイメージは大分払拭されていた。おしゃれなレストラン、カフェ、そしてアパート群が建ち並び、すっかりキャンパスを中心にした街になっていた。でもごみごみした感じは相変わらずで、住みたいとは思わなかったけど。