yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

守屋毅著『近世芸能興行史の研究』を入手

今日は以前の勤務先の同僚だった方と神戸の「ラ・スイート神戸ハーバーランド」でランチをした。フレンチは2年ぶり。食べログの評価が高いお店で、なかなか予約が取れないと聞いていたのだけど、ラッキーだった。評価通り、とてもレベルの高いフレンチだった。ただし、グルメとはほど遠い私の舌はあまり当てにならない。おしゃべりに花が咲き、気づいたら3時間近く経過、そのあと喫茶店でまたおしゃべり。中之島図書館到着は予定より大分遅くなった。

予定では守屋毅さんの著書を二冊借り出すつもりが、すでに「文化史」の方は借り出された後だった。でも一番読みたかった著書は入手できたので、さっそく読んでいる。芸能の中世から近世にかけて興行形態の推移を扱った包括的な研究(ご本人は「包括的」とされることを好まれなかったようだけど)。たぶん先人のいない研究領野で、だから大胆な仮説を立てること、その仮説を導き出すだす想像力とそれを裏打ちするだけの理論武装が必要になる。それを兼ね備えた研究者はほとんどいないと思う。だから守屋さんの夭逝はとても残念。痛恨の極み。想像力と理論武装は欧米の研究では必須だけど、日本における「研究」ではあまり重視されていない。重箱の隅をつつくようなチマチマとしたものばかりのような気がする。仮説の例証部は先に読んだ『元禄文化』と重なるところが多かったが、それも当然で、『元禄文化』の方はこの研究書の続きだから。

彼は郡司正勝氏と林屋辰三郎氏の研究を高く評価している。興味深いのは、郡司氏のものを「芸態論」、林屋氏のものを「環境論」と区別しているところ。これはとても分かりやすい区分け。郡司氏のものは、たしかにそうだと納得。林屋氏の方はずっと以前に2、3冊読んだだけなので分からない。この区分け、すっと頭に入ってくる。こういうことをすること自体、あまり「日本的」手法ではない。どちらかというと、アメリカ型。だから目次をみただけで、この研究の全体像がはっきりと浮かび上がる。こういうきちっとした「構造」も日本の研究者というより、どちらかというとアメリカ型のように思う。ひょっとしたら、当時欧米を席巻していた「構造主義」の影響を強く受けた研究なのかもしれない。

帰りの梅田までの地下鉄内で、以前の勤務先の同僚だった方(学部は違ったけど)と出会った。そういう日ってあるんですね。「えっ、どこか(他大学)に移られたんじゃなかったんですか」と言われてしまった。多分お気楽そうな顔をしていたんだろう。