yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

通し狂言『菅原伝授手習鑑』@国立文楽劇場4月25日夜の部 国立文楽劇場開場30周年記念
七世竹本住大夫引退公演


以下がサイトからの構成。

第2部 
三段目  
車曳の段
       
茶筅酒の段
       
喧嘩の段
       
訴訟の段
        
引退狂言 桜丸切腹の段
 

四段目  
天拝山の段
       
寺入りの段
       
寺子屋の段

住大夫引退公演、しかも明後日が千秋楽ということで満席だった。先日よりも観客席がずっと明るい感じがしたのは、若い年齢層の人も来ていたからだろう。地元大阪での文楽公演なのに、今までは心配になるくらい人が少ないことが多かった。だから滅多に通しではしない狂言と住大夫引退公演という二重の理由で、こんなにも人が集まったのだろう。うれしかった。これだけの観客がみていると、演じる側も気合いが入る。今までに見られなかった演者と観客との相互の掛け合いがあった。

今日の狂言の後半部分、前半に語った大夫さんたちが再度語っていた。これにもおどろいた。今まで、昼の部に出た大夫は夜には出ないことが多かったから。おかげで、呂勢大夫、津駒大夫、咲甫大夫、文字久大夫、英大夫、千歳大夫といった中堅の名大夫達の語りを聴けて大満足。

三味線も清治が最初の段から登場で、豪華!清治は最近は呂勢大夫の三味線のことが多い。

私の大好きな三味線の富助は最後の「寺子屋」で嶋大夫と競演だった。この切り、最高だった。もちろん、嶋大夫、素晴らしかった。彼の世話物は夙に有名だけど、こういう狂言でも揺るがない実力を魅せてくれた。源大夫が病気ということで、この公演での現役の切り語りは彼のみになってしまう。2年程前に体調が良くなかったのか、「あれ?」と思ったことがあったど、この切りは今まで聴いて来た彼の演奏ではトップクラス。いつもながらに力が入ると伸び上がって語る。それに合わせて、三味線の富助の演奏にも力が入る。この絶妙のコンビネーション。

住大夫、「桜丸切腹」の段の切を語られたのだけど、非常に安定した語りで、心配が杞憂だった。去年の「復活公演」のときの語りよりずっと声がしっかりしていた。こういう風に「惜しまれて」去るというのが彼の美学なんでしょうね。

この「桜丸切腹」に後半部のハイライト部が収斂させられていた。というのも語りが住大夫、桜丸に蓑助、桜丸女房八重に文雀という顔ぶれが揃ったから。今までの文楽を支えてきた三人が勢揃いした。文字通り、舞台に向かって揃って立った。玉男さんがおられないのは残念だけど、玉女がこのあと玉男を襲名することになっている。桜丸の蓑助(「車引き」では清十郎が桜丸を演ったので)、この段のみの出演。盛んに拍手が起きていた。優男の矜持をその所作で余すことなく表現していた。対するその女房八重を遣った文雀(この段とその前の「訴訟の段」のみの出演)、ちょっと足が危なっかしいと思うことがあったけど、でもその表情のつけかた、特に首の微妙な傾げ方、肩の落とし方など、誰も敵わない。蓑助と文雀は人形遣いの最高峰。普段蓑助は女を遣うので、この二人の応対がみれたのはめずらしい。

源大夫の子息でいつもお父上の伴奏をしていた藤蔵は、「訴訟の段」で文字久大夫の三味線を弾いていた。この段の語りの、文字久大夫、「茶筅酒」の千歳大夫、「喧嘩」の咲甫大夫、「天拝山」の英大夫、それぞれにご自分の型をより高度なものにしていて、感動。「寺入り」の芳甫大夫、今まで前には出てこられていなかったので注意していなかった大夫さんだけど、今日の語りは伸びやかで(身体も大きい)、これからの活躍が目覚ましいことが予測できた。

いままで「下積み」だった大夫たちが表に出て大活躍していた。しかも実力がしっかりあることが、今回の公演でよく分かった。三味線、人形遣いともに然り。文楽の確固たる将来を担保したという点でもこの公演、大成功だった。

蛇足だが、歌舞伎でかかるのは「車引き」と最後の「寺子屋」が多い。「車引き」は華やかさを魅せるものだから、それだけで完結しているのだが、「寺子屋」は非常に難しい段。というのも、源蔵が自分の寺子屋に寺入りしてきた子供の首を刎ねるなんてこと、現代では考えられないから。その上その子供の父の松王丸がそれを見越して息子を送り込んだナンていうのは、到底信じ難い「暴挙」だから。歌舞伎の場合も恐らくそのあたりを説得力あるように描くのに苦労はしているのだろう。歌舞伎の場合は役者が演じるので、その分、首はねとそのあとの愁嘆場が幾分か「和らげられる」感じがする。でも文楽の場合、それが素材としてあまりにもそのまま、生々しく示されるので、観ている側にとってはかなり辛い。おそらく外国人にみせたらクレームが山ほど来るだろう。そんなことを考えてしまった。

私が歌舞伎でみた「寺子屋」でもっとも印象的、衝撃的だったのは1995年3月歌舞伎座でのものだった。通し狂言だったとはいえ、間の段がかなり省いてあった。松王丸が幸四郎、源蔵を富十郎、松王妻を芝翫、源蔵妻を松江(現魁春)という配役。花道を通ってくるときの源蔵役の富十郎の陰鬱そのものの顔を今でも思いだす。幸四郎も歌舞伎の常套、「実は善」への転換にそう無理がなかった。というのも心理劇としてではなく、歌舞伎の型として演じていたから。芝翫の愁嘆場も説得力があった。魁春も実直で夫にあくまでも従う妻を誠実に演じていた。

今日の後半の通し、午後4時始まりで終わったのは9時。幕間は25分が一回と5分が二回のみ。これはきつかった。先日の前半部もおなじ構成。これもこたえた。こういう長時間の通しの場合、できれば3部にしてくれたらありがたい。もっと集中してみれるような気がする。