yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

宮藤官九郎演出 新作歌舞伎『大江戸りびんぐでっど』DVD 平成21 年12月 歌舞伎座公演DVD

ありがたいことにまだ公式サイトが残っているので、リンクしておく。作・演出と主な配役は以下。

宮藤官九郎:作・演出

配役
半助     市川染五郎
お葉     中村七之助
大工の辰   中村勘太郎
根岸肥前守  坂東弥十郎
お菊     中村萬次郎
丁兵衛    片岡市蔵
与兵衛    片岡亀蔵
佐平次    井之上隆志
紙屑屋久六  市川猿弥
和尚/死神  中村獅童
石坂段右衛門 中村橋之助
女郎お染   中村扇雀
女郎喜瀬川  中村福助
四十郎    坂東三津五郎
新吉     中村勘三郎

このDVDと『研辰の討たれ』とを同時に借り出し、『研辰』の方は面白くてすぐに見終わったのに、こちらは20分程度で頓挫。返す期限がきたのであわてて残りをみた。それも大分前のこと。良かったら購入しようと考えていたのだけど、それはやめた。「壮大な」失敗作だったから。サイトに載った以下のイントロダクションをみるとそれがよく分かる。

宮藤官九郎が手掛けた新作歌舞伎『大江戸りびんぐでっど』は、制作が発表されるとたちまち話題騒然となった。江戸時代に現れた“ぞんび”が、人間の代わりに派遣社員として働くという奇抜なアイデアに始まり、音楽・向井秀徳、衣裳・伊賀大介、道具幕デザイン・しりあがり寿など、異色の才能が歌舞伎座に集結。流行りの一発芸から下ネタ、ヒップホップにゾンビテイストを加えたダンスなどのエンタテインメント性のみならず、社会問題となっている派遣切りも題材にし、現代の歌舞伎が誕生した。

時は江戸時代、処は大江戸。くさや汁を浴びた死人が“ぞんび”として生き返った。人に噛みつき増え続ける“ぞんび”に江戸の町は大騒ぎ。
くさやの名産地新島出身の半助は、くさや汁を体に塗ることで彼らを従わせることに成功する。想いを寄せるお葉と共に、何と人間の代わりに“ぞんび”を働かせる人材派遣会社「はけんや半助」を起業する。“ぞんび”は文句も言わずに人間の嫌がる仕事を安く請け負い、商売は大繁盛となった。しかしやがて派遣に仕事を奪われた人間たちが現れ、切っても死なない派遣“ぞんび”VS失業者の争いが始まろうとしていた。

「壮大な」といったのは褒め言葉ではない。あまりにも広きにわたるテーマをカバーしようとしているから。社会問題化していた「派遣切り」が軸になっているのは理解できるのだが、それとエンターテインメントの要素が上手く絡んでいなかった。逆に制御不能に陥って、ばらばらの素材がそれぞれ一人歩きしてしまっていた。おそらく宮藤官九郎の思惑とは違った方向に行ってしまったのでは。

もっとも大きな理由の一つは、彼が歌舞伎の特性をよく理解していなかったからだろう。もっといえば、歌舞伎役者を理解していなかったから。このお芝居、「ギャハハ」と笑わせるところが満載。でもそれは脚本やその演出というより、一人一人の歌舞伎役者がオモシロイから。それぞれの役者がなんともユニーク、与えられた役をはみ出て演じているから。小劇場出身のクドカンにはそれは予想を超えたことだったに違いない。脚本やその演出を超え出る演技なんて不遜なことは、彼の関係する劇団では起きなかっただろう。でもそこは歌舞伎役者。じっとしていても目立つのが習い。そういう演じ方をするように身体が仕込まれている。ましてや、この芝居ではそれぞれがある意味やりたい放題ができるような設定になっている。だから演出者の役割は、それをできるだけ「制御」し、全体の調和を図ること。それができなかったということだろう。やるなら、小劇場系の舞台で小劇場の俳優たちを使った方がまとまりができて成功しただろう。

歌舞伎役者にとっておちゃらけだろうが、エログロだろうが屁でもないだろう。身体ができているから、西洋音楽に合わせたダンスだってできてしまう(それはシスティナ歌舞伎『GOEMON』の時によく分かった)。むしろできて当たり前なのだ。だから演出家の力が弱いと、彼らの土俵で相撲をとることになり、これは初めから演出家の「負け」である。このあたりの苦労を、勘三郎主演の『浅草パラダイス』を演出した久世光彦が書いている。

だから個別の役者を観ている分には十分楽しめる。市川染五郎は主人公半助の清濁あわせもつ二面性を描くのに成功しているし、そこになにがしかの悲哀をもたせるのにも成功している。これで彼を見直した。他の役者も私がいままで知らなかった面をみせてくれて、その点でも彼らを「見直した」。中村七之助は『鼠小僧』の町娘が良かったのと同様に、この若女房役がはまっていた。中村勘九郎は(いつもながらに)意外性がないけれども(だからあまりおもしろくないけど)、彼のニンに合った役だった。中村獅童もおちゃらけを上手く演じていた。

いちばん唸ったのは『研辰』のときと同様に、中村扇雀と中村福助。この作品では女郎のペアとして登場。それぞれ勝手のし放題。笑えた。それにしても色気満々の女郎たち、こんなのが出て来たら世の男達は手も足も出ないだろう。

そしてなんといっても坂東三津五郎とちょっとだけ出て来た中村勘三郎。とくに三津五郎は名演技で、静かにしていてもそこだけやけに目立っていた。さすが。勘三郎がチョロとしか出てこなかったのは、おそらく自らは引いて、息子とその同輩たちに花を持たせるためだったのだろう。彼は芸談の中でクドカンを高く評価していたので、敬意を払っての「客演」でもあっただろう。

観てから大分経つが、テーマは浮かんでこないのに、それぞれの役者の様子が目に浮かぶのは、彼らが生き生きと演じていたから。その意味ではこの舞台、「成功」しているのかもしれない。