yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

野田秀樹著『野田版歌舞伎』新潮社2008年刊

去年観たシネマ歌舞伎『野田版鼠小僧』が面白かったので、どんな脚本なのかを知りたくて、図書館から借り出した。他に『解散後全劇作』も借り出した。扇田昭彦著、『井上ひさし』、渡辺保著『近松物語』も一緒に借り出したので、ここ数日で読了するつもり。同僚の他界、2月のアメリカでの学会が行けなかった等で、精神的にかなりダウンしていたので、ブログを書くのも億劫だった。やっと、気分的に余裕が出てきた。

この本には『研辰の討たれ』、『鼠小僧』、そして『愛陀姫』が収録されている。『研辰の討たれ』はちょうど2年前の2月に「染五郎版」を松竹座で観た。このブログ記事にもしている。

野田版はそれとはかなり違っていた。野田版の方が遊び、つまり「カブク」要素が満載で、とてつもなく「アリエヘン度」が高いように感じた。「これ、舞台でどう収集つけるの?」なんて思った。「シネマ歌舞伎」として劇場で観たいのだが、当分は上映予定がなさそう。DVDを買うしかないかもしれない。

『鼠小僧』は、「そうそう、こんな場面があった」なんて、言いながら読んだ。すでにシネマ歌舞伎でみているから場面が浮かんできたけど、脚本でも十分に楽しめただろう。それくらい、よくできた脚本だった。野田秀樹の才能に感服。『愛陀姫』はもちろん歌劇『アイーダ』をカブキにアダプトしたものだけど、他の二作に比べると今一つだった。

一番面白かったのは、野田の「歌舞伎」に対するというか、盟友中村勘三郎に対するオマージュ記事である。以下のところ、ハゲシク同意。

私は、伝統をわざわざ踏みにじろうなどという者ではない。第一、そんなにあっさりと踏みにじられるようなものは、長い時間をかけて作られた伝統ではない。踏みにじられるのは伝統に乗っかった勘違いである。[勘三郎の好きだったディズニーランドのような]見せ物に脈々と流れる伝統とは、面白がり、面白がらせる心である。この「がりがらせる心」があってもなお面白いモノを作るのは大変なことだ。面白さなど、日々刻々と変ってゆくものだからである。
 予言をしておこう。
 この『研辰の討たれ』を見て、「こんなモノは歌舞伎ではない」と仰有る方が必ず現れる。私はそんなことには慣れっこである。元々、「こんなものは芝居ではない」と言われて二十年以上しぶとく芝居の世界を生き延びてきたのだから。
 歌舞伎はこうあらねばならない、と硬直してしまった脳をもった人間から「もっと歌舞伎を勉強しなさい」と言われたら、謙虚にその言葉は受けとめる。けれども、同時にこちらも「もっと面白さを勉強しなさい」と「がりがらせる心」が思わず言い返してしまうだろう。

歌舞伎はもともと「高尚な」もの、勉強しなくては分からないものではなかった。大衆から出て来たもの、だから、彼らを面白がらせなくては生き延びることはできなかったのだ。面白くてナンボの世界なのだ。松竹の打つ「大歌舞伎」が面白さでは花形歌舞伎にはるかに見劣りがするのは、野田のいうところの「がりがらせる心」が薄まっているからだろう。

大衆演劇はこの「がりがらせる心」をふんだんにもったPerforming Artsである。花形歌舞伎との共通点をもつ。否、花形歌舞伎以上にそうである。松竹のパトロネージュもなく、ただ観客の払う木戸銭で(それと多少の祝儀で)成立している、というか成立せざるを得ない。だからどう「面白がらせるか」に全神経を集中させている。その潔さは江戸の歌舞伎のものでもあっただろう。野田は大衆演劇を見たことがあるのだろうか。その感想を聴きたい。

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追記
『研辰の討たれ」の脚本を読了。染五郎ヴァージョンもこれを基にしていることが分かった。ただ、台本に溢れている軽やかさがなかった。この脚本、もう突き抜けている。全編アナロジーたらアリュージョンたら、アイロニーたらに満ち満ちて、遊び心満載!これを駆使できるのは、やはり亡くなった勘三郎をおいてはいなかっただろう。染五郎がやると、どこかに「律儀さ」がつきまとうから。