yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

守屋毅氏の芸能史

すでに鬼籍に入られている。中世から近世にかけての芸能史の先駆けを築いた方である。1991年に47歳という若さで亡くなった。本当に惜しい。民衆芸能の視点から歌舞伎へのアプローチをしていた服部幸雄氏も既に亡い。敬称略としたいのだが、このお二人にはどうしてもそれができない。

歌舞伎を現在あるような完成体としてではなく、民衆のエネルギーの発露が創り上げて来た、そしてそれゆえの猥雑さをふんだんに持ったものとして捉えて行くのは守屋毅氏にも服部幸雄氏にも共通した視点だが、それは郡司正勝氏の系統に入るだろう。郡司さんもまたすぐれた研究をされている。集めた本は時間をとって読みたいと考えている。服部氏の著作も然り。

でもなによりも、守屋氏の著作はすべて集めたい。その魅力的なこと。読み始めるととまらなくなってしまう。一応彼の研究の原点で学位論文でもある『近世芸能興行史の研究』(1985刊)を入手したいと考えているのだけど、古書で19000円、安くて10000円となると二の足を踏んでしまう。大阪市立図書館にはさすがにあるようで、行く機会を作って借り出してみるつもり。今のところ手許に集めたのは図書館から借り出した『中世芸能の幻像』、『日本中世への視座』、『元禄文化』と、アマゾンから入手した『村芝居』の4冊。

一番面白かったのは『村芝居』の中の「旅芸人の芸能史」。これは沖浦和光氏の研究にも影響を与えた論考だろう。もうひとつ読み出すとやめられないほど興奮したのは、『元禄文化—遊芸・悪所・芝居』。この副題からも明らかなように、元禄期に危険な香を放つ遊芸が、町人文化の産物として花開いたという事実。その中の嚆矢が「芝居」(演劇ではない)だったこと。その芝居は性を仲介とする点で、もう一つの悪所である吉原等の遊郭と分ち難く結びついていたこと。こんな風に云ってしまうと、「なんだ、そんなこと周知の件ではないか」と思ってしまうだろうが、彼の筆にかかると、それが事実としてというより、パフォーマンスの一つのように生き生きと甦る。過去が現在になるという、そんな体験をさせられた気になる。まさしく、彼は自身が論じている「異形の者」その人に乗り移っているかのような錯覚をするほどである。今までの文化史の研究者がしてこなかったアプローチで芸能と芸能史を鮮やかに切り取ってみせる。それを読んだ者にそのワクワク感を伝染させてしまう。

こういう研究者に出会ったことがないので、ホント驚きである。きっと破天荒さをもった、枠に納まりきれない人だったに違いない。だから夭逝といってもよい若さで亡くなったのが惜しい。彼以降、こういうアプローチで芸能、芸能史を論じた人はいないように思う。