yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

谷崎潤一郎作品は好きになれない

ここ2ヶ月ばかり谷崎潤一郎の作品とつきあってきた。先週末に40枚弱のささやかな論文を書き終え、さきほど註をつけた草稿が出来上がった。で、分かったこと。どうしても谷崎を好きになれない。

でも谷崎論は、例えば三島由紀夫について何か書くよりも、はるかに楽だった。作品と自分との間に距離をとれるから。好きでもない作品を読んでも葛藤は生まれない。感動も限定的である。というわけで、楽なのだ。他の彼と同時代の大御所、川端康成の作品は高校生で読んだときにはまったく感動しなかったのに、アメリカの大学院の授業で『山の音』を読まされたときには、オイオイ泣いてしまった。歳を取って初めて、その内容が切実に身に迫ってきたのだった。やっぱり文豪だと納得した。そういうことが、今回の谷崎にはなかった。読めば読むほど、その「時代遅れぶり」と「傲慢」とが鼻についた。一言でいえば、「いけ好かない厭な奴」である。

松岡正剛が「千夜千冊」の中で「陰翳礼讃」について論じている。これは面白い。その中に中上健次が谷崎のことを「物語の豚」とあしざまにいったとあった。まさに言い得て妙!松岡がいうように、今世紀になってからは特に、フランス発のポストモダン思想が広がり、「大いなる物語の終焉」が叫ばれた。今でもその影響下にある。アメリカの大学院でも三島由紀夫は人気だったけど、谷崎をやりたいという人はいなかった。そのわけを考えたことはなかったが、今度随筆、劇作品を含む谷崎作品を幾つか読んで、どのジャンルのものも大してスゴイとは思えなかった。まだ小説はなんとか読めるけど、随筆は彼の決して人好きのするとはいえない「人となり」が顕著に出ていて、読んでいて嫌悪感を感じてしまった。英語に訳してもそのニオイは残るだろうから、外国人で谷崎を博士論文の題材にする人が余りいないのも納得である。

『陰翳礼讃』など、松岡がいうようにけっこう支離滅裂。言いたいことは何となく分かるのだが、理路整然とした議論になっていない。頭も大して良くなかったのでは。三島と比べるから、どうしても見劣りしてしまう。といように、悪態を何度もつきながら、やっと谷崎から解放された!