yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『新・油地獄 大坂純情伝』、十月花形歌舞伎@大阪松竹座 10月3日昼の部

サイトからの情報及びチラシ写真は以下である。

<配役>
河内屋与兵衛 愛之助
お吉 壱太郎
刷毛の弥五郎 亀鶴
皆朱の善兵衛 萬太郎
天王寺屋遊女小菊 新悟
おかち 尾上右近
雁金文三 薪車
山本森右衛門 猿弥
おさわ 吉弥
豊嶋屋七左衛門 男女蔵
果心   翫雀

<みどころ>

 純情ながらも不良仲間とつるみ喧嘩沙汰ばかり起こす河内屋与兵衛は、苦涯に身を落とす恋人小菊のこと、男癖の悪い母親おさわのことと悩みは尽きない。そんな折、母おさわの放蕩で妹おかちが身売りすることになるかもしれないと知り、普段なにかと世話を焼いてくれる幼馴染で油商豊嶋屋女房のお吉に、金を融通してほしいと頼むが、にべもなく断られてしまい…。

 
 『女殺油地獄』は近松門左衛門が書き下ろした全三段の世話浄瑠璃で、享保6(1721)年に大坂竹本座で初演された作品です。当時、実際に大坂で起きた油屋の後家が殺害された事件を素材としているといわれています。本作は平成15年(2003)年、『女殺油地獄』の世界をもとに平成若衆歌舞伎第二回公演で初演され、好評を得ました。情熱と純情溢れる、平成の歌舞伎を存分にお楽しみください。

ひとことでいえば、『ウエストサイド・ストーリー』の悲恋ものの背景に、近松の『女殺油地獄』を(筋書解説によると、さらに山本周五郎の『深川安楽亭』をも)組み合わせたもの。これは秀太郎が長年温めてきた構想だと、秀太郎自身が書いていた。近松は、与兵衛の行動のエゴイズム、理不尽さとお吉の貞淑ぶりとを対比させ、ワルの与兵衛がお吉を無情にも、残酷にも殺すところに、人の心の深淵、不条理を描いている。その不条理性が最も際立つのが、与兵衛とお吉が油の中を転げ回る場面である。ここにはエロティシズム、グロテスク、そして暴力が詰め込まれていて、観客はその圧倒的なエネルギーに当てられながらも、どこかカタルシスを感じる。それこそが近松のドラマツルギーである。

この『大坂純情伝』では貞淑と思えたお吉が与兵衛を挑発、「誘惑」する設定になっているが、原作にもそういうニオイは確かにある。ただ、それはあくまでも観客が感じ取るもので、はっきりと示されている訳ではない。二つの作品を比べると、やっぱり近松の方が「理不尽」をあえてそのままにしておくところに、不条理度が際立っているように思う。

「純情伝」はこういう不条理を理屈で説明しようとして、近松とは違ったアプローチを採る。与兵衛がぐれたその根拠を彼の淫乱な母との関係に求め、彼の絶望が彼を不品行に追いやったという理屈がつけられている。原作のどうしようもない手前勝手なワルぶり、それも小者特有のずるさといったものは捨象されて、どこかヒロイックな与兵衛が造型されている。

それを象徴するのが与兵衛最期の場であろう。追いつめられ、役人達と派手な立ち回りをする与兵衛。歌舞伎の趣向がふんだんに盛り込まれたこの場面では、屋台崩しなども取り入れられている。最終場面では役人達に殺された与兵衛が戸板に乗せられ、真上からの輝かしいライトを浴びつつの終焉となる。まるで悲劇のヒーローである。「えっ、どこか違うんじゃぁないの?」なんて思ってしまったけど、そういう野暮はいいっこなし。

もとの与兵衛という人物の設定が土台となっている『女殺油地獄』とはまったく異なっているから、当然なんだけど。どちらかというと、『ウエストサイド・ストーリー』的悲劇、あるいは、『ロミオとジュリエット』的悲劇なのだ。だから、与兵衛と小菊との成就しない恋ゆえの「道行き」の様相も呈している。実に盛りだくさんな(?)内容になっている。その意味では大阪らしい「お得感」が溢れている。いかにも上方歌舞伎の立女形、秀太郎の発案、構想らしい新作歌舞伎だといえるかもしれない。

この「新作」のもとを辿れば、上方歌舞伎塾に行き当たる。平成15年に上方歌舞伎塾出身の役者たちによって、梅田ドラマシティで初演された。梅田劇場の整った近代的最新鋭の設備を最大限に使ってのものだったようである。歌舞伎専用小屋の松竹座はそれほど整ってはいなかったかもしれない。でも新しい試みに挑戦するという意気込みは十分に感じられた。

友人が一階前方の花道横という良席をとってくれたので、役者が花道を出てくるのを間近でみることができた。特に、ミュージカル風に一列になって踊りながら出てくる場面は傍で見るとたしかに迫力があった。ちょっと揃っていなかったけど。その点ではトップクラスの大衆演劇の劇団の方がはるかに良い。現代風舞踊(群舞)と古典舞踊とのハイブリッドなんて、日常茶飯事、「朝飯前」だから。

今年2月、松竹座での『GOEMON』のときと同様、役者たちが客席を縦横無尽に駆け回る捕り物も、従来の歌舞伎にはない試みで、観客も沸いていた。これも大衆演劇では常套である。歌舞伎の新しい試みは、大衆演劇がすでに手をつけていることである。いかに観客を巻き込むか、その手段を考えれば、同じ方向に向うのは当然だろう。スーパー歌舞伎、野田版歌舞伎なども、そういう方向性に乗ったものだった。このままこういう今までの歌舞伎の常識を覆すような挑戦が続けば、歌舞伎はもっともっと面白くなるし、若い世代を引込むことができるに違いない。

壱太郎が以前よりずっと女の艶っぽさを出せる女形へと成長していた。愛之助はワルをやるより、こういう役の方がニンにあっているのかもしれない。上方の「つっころばし」的なダメオトコぶりもよかった。彼と(役の上でも)張り合った薪車もよかった。女形の新悟、右近も初々しくて、去年より数等うまくなっていた。若手全員が生き生きと楽しげで、その雰囲気はこちらにも伝染した。

のびのびと演じている若手たちをしめる役をしていた翫雀がなんともいえない味を出していて、さすが!と唸った。この芝居自体を劇中劇として観客に提示する狂言廻しの幻術師役で登場。舞台ど真ん中にしつらえた芝居の掛け小屋で演じられている『曾根崎心中』の悲劇と同様の悲劇が、これから舞台でも演じられると暗示する。この掛け小屋の工夫も、とても実験的、斬新な試みだと感心した。

しめる役として登場した別の大御所(?)の猿弥も翫雀と同じく彼ならではの芝居をみせてくれた。また与兵衛の母を演じた吉弥の悪女ぶりも説得力があった。「できた女」より、こういう役の方が、ピッタリかも。