yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

母と娘、このおぞましい関係

Google News のメイン欄の右にあったサイトで、「藤圭子・宇多田ヒカルから考える『母娘関係』」というのが目についた。こういう記事が出てくるだろうと予測していたので、内容は読まないうちから推察できた。案の定、記事の大まかな内容は予測通りだった。

藤圭子さんが新宿のマンションから飛び降り自殺して以来、娘の宇多田ヒカルさんの心持ちを思い、辛かった。彼女がブログで自身の思いを綴ったと分り、少しほっとした。でも、これからの彼女が負う重荷を考えると、気持ちが暗くなる。なんとしても慰めてあげたいと思う。彼女の自責の念、罪悪感がまったく不必要なものだと、言ってあげたい。

藤圭子さんの自殺、これは暴力的に娘を自身に永遠につなぎ止めるものとしか考えられない。ほんとうにひどい母だと思う。もちろん、精神を病んでいた藤さんにそういう理性的判断はなかったかもしれない。でも、でもである、いささかでも彼女に正気が残っていたなら、娘にとって自身の自殺という行為がどれほど大きな禍根を残すかは予想できたはずである。本当に娘を愛していたなら、こういう行為はなかっただろう。

母というのは因果な「商売」である。美化されているようなアイデアルな麗しい母子関係なんて、ありえない。イリュージョンに過ぎない。母と息子の関係がエディプスコンプレックスとして俎上にあがるが、実際には母と娘の関係の方が何倍も厄介である。

自分自身の経験としてこれは断言できる。娘に罪悪感をもたせるのが、無意識にせよ母の目的なのだ。その策にはまってはダメである。本当に娘を愛しているなら、娘が罪悪感を持つのをなんとしても阻止するはずである。「私はあなたのために、色々なものを犠牲にしてきたのよ」なんてことは絶対に言わないはずである。その「見返り」を暗黙のうちに要求したりしないはずである。でも残念ながら、たいていの母・娘の関係では、娘の方がこの陥穽に落ちいっってしまう。完全な母の勝利に終わってしまう。フェアではない。藤圭子宇多田ヒカルの母娘関係のように。

私自身がこういう陥穽に陥っていたので、これは身に詰まされる。ずっと、母の期待に応えて罪悪感を持ち続けてきた。なぜ自分だけがこういう思いにとらわれ続けるのか、理解に苦しんだ。「フェアじゃない!」と叫び続けてきた。相手はこちらのそういう重荷にはまったく無頓着。無頓着というか、“take it for granted” で、こちらが苦しむのが当たり前と思っている。「苦しまない娘は愛情が足らないし、恩を感じていないのだ」という論法で迫ってくる。もちろん、ことばとしてそういうメッセージが発せられるのではなく、それは無意識裏に相手の深層意識(無意識)に向けて発せられるのである。だから厄介なのだ。

ずっと前に英国旅行をした折に、エディンバラの書店で

Toxic Parents: Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life

Toxic Parents: Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life

という本をみつけ、宿に帰ってから一気に読んだ。当時日本ではいわゆる「母幻想」(母性愛幻想)がまだイキだたので、この本はまさに「目から鱗」だった。はじめて、「母に対して罪悪感を感じなくてよいのだ」と諭してくれる本だった。救われた気がした。最近、日本語にも翻訳されているようである。近年になって、やっと「母幻想」から逃れて、実際の母と娘の関係のもつ問題点が俎上に上がるようになったのだろう。娘の立場として、少しホッとする。

宇多田ヒカルさんに伝えたい。「あなたがお母さんに罪悪感を感じる必要はまったくないのですよ。彼女は自身の選択で命を絶ったのですから。そういう形で自身の命を完結させる道を選び、「成功」したのだから、もうそれはそれで終わりなのですよ。子供を含めて他者はなんらそれに関係はないし、関係させる事自体、死者への冒涜ですよ」と。