yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

二つの「実録」本『大衆演劇への旅』(鵜飼正樹著)と『安部公房とわたし』(山口果林著)

この二つに同時期に目を通して、「実録」本のあり方を考えさせられてしまった。
もちろん、性質はかなり違ったものであるが、今もその本がでることで少なからずの影響を、遺った人間に与えるという点での共通点がある。

どこか覗き見的な欲望を刺戟するなにかが「実録」本にはある。だから、読者のそういう期待に応えるように書かれているのが普通である。

『安部公房とわたし』(講談社、2013年8月刊)は今日書店で平積みになっているのを、思わず手にとった。表紙の山口果林の写真がハッとするような可憐な感じのものだったから。いきなり何頁かの写真。彼女自身の全裸ヌードをふくむ安倍公房との生活を写しとったものである。とても買う気にはなれない類いの本だったのでざっと読んだのだが、いささか気分が悪くなった。没後20年経つとはいえ、こういう本を出されて、果たして安倍がよろこんでいるだろうか。二人の秘密の生活がすばらしかったのだったら、それはこういう形で衆目に曝すものではないだろう。

想像通り、ここに書かれている安倍は決して徳の高いというか、高邁な人にはみえない。もともと安部公房を高く評価していないので、失望することはなかったけど、でも一応は三島由紀夫と巷間ではその文学性の高さで張り合っていた作家である。三島も暴露本を出されたが(すぐに出版差し止めになった)、それとはちょっとレベルが違いすぎる。三島の暴露本はなんら彼の文学的優位性を損なうものではなかった。でもこの安倍の暴露本は、なにか安倍の作品に汚い吐瀉物をかけたような、そんな感じを引き起こす。倫理的に問題だと思う。違いがその出版意図にあるからだろう。かなりの悪意を感じてしまう。それも遺族に対しての。山口自身が著書の中で語っているのだが、彼女が安倍の愛人を20年もやってきたのに、安倍の遺族はまるで彼女が存在していなかったようにふるまってきたと。でもそれって、当たり前のことじゃ?それを覚悟の上で愛人になったんでしょう。安倍の晩年、「結婚するところまで行っていたのだ」と山口はいう。もしそうなら、余計にこういう本は出版するべきではなかっただろう。

安倍は1993年1月に脳内出血からの急性心不全で亡くなったのだが、妻の真知子はその後を追うように同年9月に亡くなっている。安倍の病気を巡っての安倍の家族とのいきさつも山口の本には記載されていた。それもどこか、自己中心のものに思えて仕方なかった。

著書での「安倍からの卒業」という彼女の言質とは相反して、彼女自身が恨みのトラウマから抜け出ていないように感じた。そこにただならない危うさを感じてしまった。「卒業」しているのなら、こんな本を出版する必要もなかったはずだから。

『大衆演劇への旅』(未来社、1994年刊)は先日図書館から借り出し、一気に読んでしまった。こちらは「卒業できない悩み」の結晶としての実録である。

著者の鵜飼は京大の院生(専攻は社会学)のとき、大衆演劇の劇場、一座に出逢い、実に1年2ヶ月もの間(1982年4月から1983年6月)、劇団員としての実体験(フィールドワーク)をした。フィールドワークといっても、一座の座員として舞台に出、その団体生活も実際に体験したのだ。新米の座員として、演技や舞踊やらも覚え、叱られても歯をくいしばりながら耐えて、なんとか舞台に立てるようにまでなったのだ。

彼はその後大学に戻るのだが、学生としての鵜飼正樹、座員としての南條まさき、あるいは生活者としての正樹のどれが一体自分なのかと思い悩む。一座にいるときからそれはずっとあったのだが、座員期間1年2ヶ月の間にも解決できなかった(山口の場合もおそらく同種の悩みはあっただろう)。そしてこの本を出した1994年になっても、「南條まさきとは私にとって何者だったのだろう」と問い続けているのだという。

内容は「ここまで書いていいの?」というくらい、リアルである。実際の一座(南條すすむ座長の「市川ひと丸劇団」、今の「劇団むらさき」)の了解はとってあるというが、でもちょっと心配になるほどの中身である。彼自身が他の座員と張り合ったり、もらう祝儀に一喜一憂したりするのはいいとしても、客との関係となると、「ここまでと書いて大丈夫?」なんてものもある。

「南條まさきさん」は、彼のファンになった若い女性と一回デートした程度。でも、同じ劇団の座員たちは客とねんごろになって客宅から通ってきたりとか、ホテルに行ったりとか、それこそ客との性の絡んだつきあいが日常の世界だということがよく分かる。それも、どちらかというと女性客の方が誘いかけるのだ。彼の師匠の南條すすむさんは常々彼に、「女に惚れたらおしまい。女に惚れさせろ」とおっしゃったそうな。このリアルさに参ってしまう。もちろん、全部の劇団でこういうことがあるというわけではないだろう。でもこういう「事実」もあることはあるに違いない。

社会学学者としては、ここまで書くのは当然のことではあるにしても、「市川ひと丸劇団」がこの本の出版をよくぞ許したものだと、逆に感心してしまう。さわやかささえ感じる。ここがあの山口本の後味の悪さとの違いである。

また座員として生活した経験からの彼のことばには、大衆演劇への強い思いが伝わってくる。1年365日、ほとんど休みのない苛酷な生活、毎月の移動も実にリアルに描かれている。「せめて一ヶ月2、3日の休みがあれば、他の演劇、歌舞伎、商業演劇、学生演劇等も観に行くことができるだろうに」という彼の実体験から出た感想は、直にこちらに伝わってくる。

この本を読んで、不愉快になる当事者はいないと思う。それが山口本との決定的違いである。私が想像するに、まさきさんは今でも「市川ひと丸劇団」にご自分の一部を置いてきてしまっているのだろう。この本を書くということで、一つの区切りをつけようとしたのではないか。でも、自分の立ち位置が依然としてわからない。だから、旅の「あがり」なんていわないでしょう。