yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『春琴抄』と『源氏物語』の英訳

谷崎潤一郎の『春琴抄』、『陰翳礼讃』をもとにした劇、『春琴、Shun-kin』をみて、色々と考えさせられた。英国人の演出による芝居だったので、かなり不満が残った。

それをきっかけに『春琴抄』、その他の谷崎作品を読み直して、あらためて谷崎と『源氏物語』の関係を考えることになった。もちろん彼は現代語訳をしているし、深くこの物語にコミットしていたのは間違いない。とくに文体。あの句読点を無視しただらだら文はまさに『源氏』を思わせる。また、『春琴抄』に限っていえば、そのストーリー展開に「宇治十帖」の影を感じた。佐助のマゾヒズムに薫のそれが重なるような、そんな気がした。

観た芝居が英国人演出だったので、英訳も読んでみた。ヒベット(Howard Hibbett)訳である。とても滑らかな文で、原文のだらだらと続く文も、きちんと区切りをつけ、段落分けしてあり、英語作品と考えてもおかしくないくらいである。抵抗感がまったくない。つまり日本語原文を読む時のまるで古典を読んでいるような感じはない。以下の谷崎の短編集に納められている。

Seven Japanese Tales (Vintage International)

Seven Japanese Tales (Vintage International)

これがきっかけで、あのだらだら文の典型、『源氏物語』の英訳を調べてみようという気になった。手許にはサイデンステッカー(Edward Seidensticker)のものがある。ただし、断片的にしか読んだことはない。それもアメリカの大学の『源氏』のクラスで読まされたから。その折、他のアメリカ人学生が使っていたのがタイラー(Royall Tyler)訳だった。こちらが指定されていた。「聴講」扱いだった私は、図書館からタイラー訳を借り出し、それをもって授業に出ていた。あらかじめサイデンステッカー訳を読んでおいて。4ヶ月(1学期)の授業で宇治十帖まで通して読ませてしまう、アメリカの大学のすごさにびっくりした。日本の大学の国文でも全部読ませるなんてこと、ないでしょう。

遅まきながら、タイラー訳をアマゾンで注文した。

The Tale of Genji (Penguin Classics) [Rough Cut Version]

The Tale of Genji (Penguin Classics) [Rough Cut Version]

アマゾンのサイトに入って、中身検索もしてみた。また、レビューも読んでみた。参考になったのがSteven E. Bradbury (from Amazon.com)という人の三種の英訳比較だった。ウェイリー(Arthur Waley)のものは巷間でいわれている通り、詩的で優雅。サイデンステッカーのものは明晰で直截的。タイラーのものが原文の感じを最も出している。文をながながと切らずに続けて行くスタイルが特にそう。聴講したクラスの担当者でもあった私の指導教授が、タイラー訳を選んだ理由も判った。タイラー氏がこういう文体をあえて選んだのは、もちろん原文にできるだけ則し、原文のもつ個性を伝えようとしたからだろう。

事実彼の他の英訳本、Japanese No Dramasの英語は「能」の簡潔明瞭さそのもので、とてもすっきりとしているから。

Japanese No Dramas (Penguin Classics)

Japanese No Dramas (Penguin Classics)

谷崎の『源氏』訳、ずいぶん前に読みかけて頓挫。ねちねちした文体に閉口した記憶がある。与謝野晶子のものに替えた。2年前に瀬戸内寂聴訳で全巻読んだ。こちらは楽しく読めた。谷崎訳がいちばん「臭かった」。その「臭さ」さが『春琴抄』にも色濃く出ていて、それを外国人が芝居の形にするのが、とても大変な(ほとんど不可能な)作業だと思ってしまった。