yoshiepen’s journal

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「最高学府の病める実態」 特定大学へ1000億ばらまきに異論噴出…大学迷走の背景に潜む、旧態依然な経営の実態

『Business Journal』の7月11日付の記事である。

自民党安倍晋三政権が4つの国立大学法人に対して計1000億円をばらまいたことに、一部で批判が出ている。アベノミクスでは「第3の矢」である成長戦略の実行が課題で、大学にある技術を使ってイノベーションを起こしていくことが狙いだが、それが失敗に終わるだろうとこの記事の筆者は予測しているのだ。現に小泉政権の折にも同様の試みは失敗に終わっている。その原因を筆者は日本の大学のマネジメントの欠如にみている。日本国立大学にはマネジメントという概念がない。社会、時代のニーズにあった研究・教育をするために経営者自ら戦略を構築、それを維持するという「経営」の概念がない。また、収益を確保しつつ、組織運営、維持を図るという意識が欠如していると断じる。

アメリカの大学ではあたりまえのこの「マネジメント」概念が欠如しているのは「経営者」がいず、また大学がサービス業であるという経営の発想がないからである。いくら法人化しても旧態依然のままだ。大学のトップを選ぶ人事も談合の上に成立している。

「大学で働く教員や研究者の採用も前近代的である」というのも事実である。人事はコネが90パーセントを占め、独立行政法人科学技術振興機構JST)が運営する公募サイト、「研究者人材データベース」の求人情報のほとんどがすでに内定しているもので、この公開データーベースは単なるアリバイ作りである。巷間にみられる大学教員による不祥事も、そういう人事のあり方に起因すると彼は断じる。

日本の著名大学でも、能力と人格に問題のある教員が採用されて跋扈している。大学で研究費の不正利用や論文の盗用、セクハラ、パワハラなどの破廉恥で稚拙な「犯罪」が多いのは、適格者を採用しないシステムも影響しているのだ。

これは国立大だけの問題ではなく、日本の多くの大学にあてはまるだろう。残念だけど。でも内部での裏工作が常態化しているところ、また、自分たちに都合のよい人間だけを上に据えるところは、おそらく日本の企業文化とも共通点があると思われる。「競争」という語は彼らの辞書にない。国際化、グローバル化といわれても、ちゃんちゃらおかしく聞こえてしまう。

アメリカの大学では “Publish or perish!”といって、論文を書かない(書けない)教授は大学に居座り続けることができないシステムになっている。日本ではどうだろう。10年も、いや何十年も論文一本もかかず、教授(准教授、専任講師を含む)をしていられるのだ(私の周囲にもそういう人が多くいる)。そういう輩の言訳は「教育に忙しいから」というものである。たしかに昨今の大学は高校並みの雑用に追われて、まとまった研究をする時間を捻出するのが難しくなっているのも事実である。アメリカの大学のように5、6年に一年のサバティカルを取ることも不可能である。アメリカでは正規の契約が9ヶ月間なので、休み中はどこにいて、何をしていても自由である。ただし年俸は9ヶ月分であるけど。

アメリカの大学では一旦職を得ても、その後テニュアをとれるかどうかで、数年間は激しい競争に曝される。テニュアをとってもその後は論文をそれも質の高いものを多く出すというプレッシャーを受け続ける。だからこそ、真の意味で国際的な、優れた研究者を多く輩出しているのだ。でもその研究を保証するだけのシステムも構築されているし、またうまく機能している。日本のように出来の良くない人が大学教員として居座り続けることが不可能な仕組みが出来上がっている。日本では教員になったが最後、よっぽどのことがない限りクビにならないので、研究業績をあげなくても居座り続けることができ、まるで天国である。

もう一つの問題点は、大学の教員の条件である「研究活動」と両輪をなす「教育活動」の中身である。最近の文科省は、教育の質を「量」で決定するものに方針変更したかにみえる。「認証評価」をする規準を「量」に求められれば、結局は質は高められないまま、つじつま合わせに走り、教育の中身は形骸化する。教員のみならず、学生も「時間数」でしばりあげる。その事務的な処理も教員に廻ってくるので、そういう事務的処理に長けた人(教員)が「重宝」されることになる。彼らの多くは研究活動は「休止中」で、雑用で忙しいことをその言訳にするのだ。

これからの日本の将来を決定づけるのは一にも二にも教育であり、その質である。最近の文科省からの圧力と、それに応えることに汲々としている大学の実態をみる限り、「アメリカの大学制度を模倣して」導入したと思われるさまざまな方式はすべて、日本流に変えられた、つまり「劣化」したものであるといわざるを得ない。アメリカの教育の根幹をなす「イノベーションを生み出す」精神はどこかに消えてしまっている。

真の競争原理が働かず、既得権益の上に成立している大学組織が、時代、社会のニーズにあった形態になることはほとんど可能性がない。またチャレンジする精神、イノベーションの精神を阻むような締め付けが横行している現状では、大学教育で「グローバル競争」に立ち向かうだけの人材を育てるなんてことは、夢のまた夢だろう。

というわけで、最後にこの記事の結論を引用しておく。

要は、国立大学法人は戦略的な組織として体をなしていないのである。そんなところに1000億円もばらまくなど、血税を捨ててしまうような愚行としか言いようがない。まずは組織改革をして、適任者をトップに就け、適材適所で人材を採用できるように改めることから始めない限り、「大学の知恵」をイノベーションのために有効活用することはできない。