yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

通し狂言『加賀見山再岩藤』(通称「骨寄せの岩藤」)@歌舞伎座 7月5日

加賀藩(作品では多賀藩)のお家騒動を背景に、忠義な腰元お初による仇討ちを描いた『加賀見山旧錦絵』(通称「鏡山」)の後日譚である。「鏡山」では、お初の主人、中臈尾上は、お家乗っ取りを謀る局岩藤により草履打ちという辱めを受け自害して果てた。お初は主人尾上の仇討ちとあわせて岩藤とその兄弾正一味の企みを暴きだして、彼らを討ち果たす。お家乗っ取りの悪巧みを未然に防いだお初は二代目尾上として、殿中に留まることになる。そして、またもや別のお家乗っ取りの悪巧みに巻き込まれることになる。

この作品、「骨寄せの岩藤」としての方が良く知られている。『鏡山』の方は一度観る機会があったが、それもずいぶん前のことで、爾来この「骨寄せの岩藤」も観てみたいと思い続けていたが、機会に恵まれなかった。おそらく通しにするとかなり重い狂言になるからだと思う。最近若手が復活狂言を立てたり、新作に挑んだり、敬遠されがちだった「通し上演」に熱心なのはとても喜ばしいことである。この今回もその一環だと推測している。随所に若手ならではの工夫が凝らされていて、意欲的な作品に仕上がっていた。以前にみた「鏡山」では岩藤を吉右衛門、尾上を雀右衛門、そしてお初を芝翫が演じた。それからみるとずいぶんと若返った役者陣である。頼もしいし、その意欲はすばらしい。

以下松竹のサイトから拝借したあらましである。

<構成>    
  
発 端 多賀家下館奥庭浅妻舟の場
  
序 幕 浅野川々端多賀家下館塀外の場
      
    浅野川々端の場
      
    浅野川堤の場
  
二幕目 八丁畷三昧の場
      
    花の山の場
  
三幕目 多賀家奥殿草履打の場
  
四幕目 鳥井又助内切腹の場
  
大 詰 多賀家下館奥庭の場


<配役>
岩藤の霊/鳥井又助:松 緑
二代目尾上/お柳の方:菊之助
望月弾正:愛之助
蟹江主税:亀 寿
又助妹おつゆ:梅 枝
花園姫:右 近
奥女中関屋:廣 松
又助弟志賀市:玉太郎
松浪主計:廣太郎
梅の方:壱太郎
花房求女:松 也
若党勝平 松 江
蟹江一角:権十郎
多賀大領/安田帯刀:染五郎


<みどころ>
『加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ))

◆歌舞伎のエッセンスを満載した黙阿弥の傑作
 加賀百万石のお家騒動を題材とした『鏡山旧錦絵』では、召使いのお初が主人の中老尾上を自害へと追いやった局岩藤を討ち、その功により二代目尾上に取り立てられます。この作品はその後日譚で、野晒しにされていた岩藤の骨が寄せ集まって岩藤の亡霊が現れ、再び恨みを晴らそうとすることから、�骨寄せの岩藤(こつよせのいわふじ)�と通称されています。岩藤の満開の桜の中での舞台上の宙乗りや、草履打ち、鳥井又助の切腹など、怪談物としての見せ場と生世話の味とを巧みに絡ませた黙阿弥らしい趣向に富んだ作品をお楽しみください。

 

<あらすじ>
騒動から五年、主君である多賀大領の側室お柳の方と兄の望月弾正は、お家横領を企てます。一方、多賀家の忠臣花房求女は、大領をいさめて不興をかい、その上家宝の香炉も奪われ浪々の身。その家来鳥井又助もまた騙され、正室梅の方を殺害してしまいます。(発端 序幕)

 

二代目尾上が岩藤を回向しようと念仏を唱えていると突如、岩藤の亡霊が現れます。思い半ばで討たれた怨みを抱く岩藤の亡魂は、花の山の上空を局の姿になって宙を舞って去っていきます。再び御殿に姿を現した岩藤の霊は、かつて尾上にしたように、二代目尾上を草履でさんざんに打ちすえます。(二幕目 三幕目)

 

又助の家には、病になった主人求女が身を寄せていました。そこを訪れた家老の安田帯刀の話から、又助は自分が誤って主君の奥方を殺害し、その責めが求女に及んだことを知ると、目が不自由な弟の志賀市が弾く琴の音を聞きながら自害します。やがてお柳と弾正の悪事が露見し…。(四幕目 大詰)

「おはなし」としては「鏡山」の二番煎じ。でも意図的にそう構成することで、「鏡山」が「骨寄せの岩藤」の向こうに透けてみえている。いわば二重写しになっているわけで、そこに単独狂言にはない興趣が生まれる。「本歌どり」の手法である。また元の「鏡山」自体に「忠臣蔵話」のアリュージョンが散りばめられていることを鑑みると、この狂言は二重写しどころか三重写しにもなっているのだ。非常に凝った作りで、いかにも黙阿弥らしい。『切られ与三』が下敷きになっている『切られお富』の場合もそうだが、黙阿弥の手にかかると過剰なまでの歌舞伎の胞子が植え付けられ、それが本歌を幾重にも変容させる。まるで「どうだ、上手いだろう。参ったか!」といわんばかりの過剰さに、圧倒される。パロディが、その変容の過激さでもって本歌を喰ってしまうという現象が起きる。

ただ、やっぱりというべきか、この過剰さを出すのは若手には荷が勝ちすぎていた。例外は染五郎。この人の最近の進境ぶりの著しさに驚いている。かっての「線の細さ」の面影はない。堂々たるものである。確信犯的に演じるようになった。多賀大領/安田帯刀の演じ分け方も堂に入ったものだった。そこに吉右衛門の影をみてしまったのだが、それは深読みしすぎ?吉右衛門が本気で染五郎を鍛えていて、染五郎も本気で応えているではないのか。そんなことを感じた。

染五郎が良かった分、菊之助、松也が割を喰ったような感があった。「遠慮している」ようにみえた。菊之助はこの大役をそつなく演じたのだが、染五郎と張り合うのには、つまり同程度のパワーで対抗するには、いささか弱かったような気がする。愛之助はさすが年長だけあって、ワルの弾正にぴったりだった。安心して観ていれた。松緑の岩藤は、なんともあっけらかんで、かなり肩すかしを喰らった。彼のキャラがそうなのだろうが、岩藤を演じるには力量不足が否めない。マンガ的岩藤とでもいうべきか、あくまでも「軽かった」。もちろん軽さを身上にするという戦略もありだろうが、彼の場合はそういう意図は感じられなかった。ただ、その「軽さ」が生きたのが唯一あの宙吊り場面。ふわふわと空中を浮遊する岩藤にはその軽さがピッタリだった。


骨寄せのシーンはCGを駆使したもので、これは新歌舞伎座の利点だろう。こういうハイテク(?)も、なんでも新しい手法、工夫を貪欲に取り入れてきた歌舞伎の出自を考えると、当然と言えば当然かも。一つ気になったこと。大向こうさんのかけ声が「高麗屋」ばっかりだったこと。しかも上の階からかかるのではなく一階席からだった。また掛けるべきところでもあまり掛からず、失望した。この日の夜の通し『四谷怪談』も観劇したのだが、そのときは三階席から、ピタリと間にあったかけ声が掛かって、ホッとした。かけ声がいかに芝居を盛り上げ、役者を励ますものかを、改めて認識した。