yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『天井桟敷の人々』パリ・オペラ座バレエ公演@東京文化会館 6月1日夜の部

パリ・オペラ座が『天井桟敷の人々』をひっさげて日本にやってきた。以下、公式サイトよりの写真。

東京、名古屋のみの公演で関西公演はない。「なぜ名古屋?」と思っていたら、トヨタの後援だった。日本公演の最終回、6月1日(土)の夜の部を東京文化会館で観た。世界最高峰バレエの名に恥じない、すばらしいバレエだった。今までにみた数少ないバレエ公演の中でも抜きん出ていた。技術的なことはあまり分からないのだが、どういったらいいのか、「バレエでここまでの猥雑さを表現できるの?」という点で未知の体験をさせてくれたし、強烈なパンチを喰らわせられた。「やっぱりスゴイぜ、パリは!」と納得。そういや、去年5月のウィーン国立バレエ団の『こうもり』に通じるものがあった。この舞台監督は元パリ・オペラ座エトワール、ルグリだったから当然といえば当然。ただ『こうもり』の方は上流階級の家庭が背景なのに対して、『天井桟敷の人々』は日本でいうなら浅草六区のようなところが舞台である。大衆演劇がかかる場所とも通じるところがある。幕が開いてすぐにそんな雰囲気が充溢している舞台が眼前に広がったので、それだけでなにかウレシクなってしまった。オペラ『カルメン』の舞台と、その点で良く似ていた。でも、ずっと「馴染みのある」ような感じがしたのは、不思議である。いわゆるロシア系バレエのお上品さ、お澄ましとはまったく違った、なんとも人間臭い雰囲気が満ちていた。こういうの大好き。もちろん『白鳥の湖』の高貴な雰囲気もステキだけれど、そういう高踏派とは対極にある(?)人間のぎらぎらした欲望を集約的に魅せる舞台の方が私にはピンとくる。でもね、観客は「お上品」なんですよ。まあ、あの高いチケットを買える人たちだから、予想できることではあるのだけれど。トヨタの後援がなきゃ、もっと高額になっていたんでしょうね。背景ともども、色んな観客を巻き込んだ舞台に「創り上げる」ためには、パリでやるしかないんだろうナと思った。東京公演では、パリの「犯罪通り」のアナーキーさを出すのは無理である。

それでも、観客を巻き込む工夫は随所にみられた。パリの下町の雰囲気を出すため、公演前、ホワイエで小狂言が演られていたし、幕間には舞台上で稽古風景がそのまま公開されていた。主役を張る踊り手たちが稽古している姿をみせるなんていう演出、劇中劇の要素を取り入れていて、実に心憎い。劇中劇といえば、幕があがってすぐに目に入ってくるのが、舞台にしつらえられた舞台で演じられる芝居(パントマイム)であるのも、心憎い。

もとの映画が1945年に公開ということは、戦時中、それも悪名高いヴィッシー(ナチス傀儡)政権下での製作だったわけで、その厳しい検閲を通るために、こういう雑然とした階層の人間のアナーキーな生活ぶりやらイキザマを、劇中劇も採りいれながら「工夫を凝らして」映画化したんでしょうね。それがそのまま当時の「道徳的頽廃を憎む」政権への批判になることを承知で。このヴィッシー政権下で作られた"Le Corbeau (英題The Raven)"という映画を思いだしてしまった。このバレエの舞台も、映画のそのような背景を念頭においてみると、また違った様相を呈してくるような気がする。

ちなみに寺山修司は映画『天井桟敷の人々』を故郷の青森で観て感激、後に劇団を立ち上げたときに、それを使ったのだそうである。

公式サイトからコピーした「ストーリー」と配役は以下。昼公演もあったのだが、それとは配役がそっくり替わっていた。昼公演の人たちの方が「有名」な人のようだった。

<ストーリー>
 舞台は1830年代のパリ。タンブル大通り(通称・犯罪大通り)は今日も大勢の人々で賑わっている。女たらしの役者ルメートルは美貌のガランスにひと目惚れするが、軽くあしらわれる。ガランスが友人で悪漢のラスネールと余興を楽しんでいると、紳士が懐中時計を盗まれたと騒ぎ出す。実はラスネールの仕業なのだが、濡れ衣を着せられたのはガランス。だが、フュナンビュール座のパントマイム役者バチストが、盗難の一部始終をマイムで再現してみせたことで、彼女の疑いは晴れる。この出逢いでガランスの虜となるバチスト。そんなバチストは、自分に恋をしている座長の娘ナタリーの想いに応えることができない。バチストはルメートルと共に出掛けた酒場でガランスと再会、ガランスもフュナンビュール座に加わることになる。ガランスとバチストは互いに惹かれ合うものの、バチストの純粋な愛に背を向けるようにガランスはルメートルと関係を持つ。一方、ガランスを見初めたモントレー伯爵は財力で彼女を口説くが、あえなく拒否される。ところがその直後、宿屋で起こった強盗事件の嫌疑をかけられたガランスは、やむなく伯爵に助けを求めることに。そして数年後、ガランスは伯爵夫人に、バチストはナタリーと結婚して息子を持つ身となっていたが…。

<キャスト>
6月1日(土)18:00
バチスト   ステファン・ビュリオン
ガランス   アニエス・ルテステュ
フレデリック・ルメートル  カール・パケット
ラスネール オドリック・ベザール
ナタリー   メラニー・ユレル
モントレー伯爵 ヤン・サイズ

群舞でそろった踊りをみせるという場面はあまりなく、個人個人がそれぞれの個性を思う存分発揮するようにしつらえられていた。これも今までみたバレエとは違っていた。技巧的にもその「超絶ぶりを誇る」という風ではなく、どちらかといえば、いかに人物そのものを表現するかというところに、重点が置かれていた。その点で、普通の演劇に近い感じがした。踊り手の演技力が問われていたから。

もちろん映画の『天井桟敷の人々』が土台になっているので、そこで名優たちが演じた役柄が基にあるのだけれど、それをどう舞踊に「昇華」させるというのが、各ダンサーに科せられた最重要課題だったのだと思う。主役バチストを踊ったステファン・ビュリオンはその点で抜きん出ていた。ジャン・ルイ・バローの向こうを張るんですからね。さぞ大変だったでしょう。道化役の時と化粧を落としたときのその落差を上手く演じていた。ガランス役のアニエス・ルテステュも良かったのだが、スレッカラシにはちょっと見えなかったのが減点かもしれない。あまりにも美しく、上品すぎたから。下宿の女将を演じた(名前が分からない)ダンサーの表現力が秀逸だった。カーテンコールでの拍手も一番だった。

もうひとつ感想。映画を買ってしまった。見始めたところだが、冒頭のパリのストリート(犯罪者通り)の雑踏の光景が、テレビ版『鬼平』のイントロ/終わりの部分に挿入される浅草の群衆たちの様子と、驚くほど似ていた。映画通の池波正太郎の意を汲んで仕事をしたテレビ局のスタッフが、この金字塔的古典映画を観ていて、「意識して似た場面に仕立てたのか」なんて、思ってしまった。