yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

松也と亀三郎がよかった 『太刀盗人』、五月花形歌舞伎@京都南座5月16日昼の部

一週間遅れの「報告」になってしまった。

いわゆる「松羽目物」のひとつで、狂言の『長光』が基になっているらしい。「らしい」というのは、残念ながら『長光』をみたことがないから。筋書に付いている「解説とみどころ」によれば、岡村柿紅作でどちらかというと同作者の『茶壺』に近いらしい。これもみたことがないので、比較できないのだけれど。岡村が舞踊の名手だった六代目菊五郎と、同じく舞踊名手だった七代目三津五郎のために書き下ろした作品で、初演では六代目がすりの「すっぱの九郎兵衛」、三津五郎が田舎者の「万兵衛」、六代目彦三郎が目代を演った。踊りの名手ぞろいの連れ舞が、当時評判を呼んだという。さもありなん。

狂言素材の松羽目物では『花子』、『棒しばり』をみたことがあるが、今回のものが一番おもしろかった。それはなんといっても、若手二人が主役を演じたからだろう。すっぱの九郎兵衛は松也、万兵衛は亀三郎、そして目代には市蔵だった。

導入部の長唄が終わると万兵衛が登場。都会に出てきた田舎者が、みたこともない店やその売り物をみて、おどろいたり、感心したりしている様が、ほのぼのとする。亀三郎はその好奇心満々の様子をうまく出していた。大勢の人に揉まれながら(という体で)興味津々にあちらこちら(市)をみて、楽しんでいる風情も可愛かった。能、狂言ではあたりまえだが、何もない舞台の上に彼の所作で市のにぎわいを表現するのは、かなりの力量が要る。実直だが、ちょっと抜けている感じも上手く表現していた。

そこへ登場したのがすっぱ(掏摸の意味)の九郎兵衛(松也)。花道半ば(七三ではない)で立ち止まり、「腹の中まで真っ黒の九郎兵衛と申す隠れもないスリでござる」と自己紹介。ここのところ、面白メイクの松也みごと!笑いは起きたが、でも東京とは違って、控えめ。がっかり。それにもめげず(?)舞台進み寄った九郎兵衛、田舎者まるだしの万兵衛と彼が腰につけた太刀を認め、格好の獲物を見つけたとほくそ笑む。隙だらけで珍しい品物を見るのに夢中の万兵衛につきまとい、ついには万兵衛の太刀の紐を自分の腰に結わえてしまう。ここのところ、「ずっこい?松也」と「ぼんやり屋の亀三郎」の呼吸が上手く合っていました。

気づいた万兵衛が騒ぎ立てた(九郎兵衛も負けじと叫び立てた)ので、目代、左衛門登場。ただどうみても、切れ者にはみえない。万兵衛、九郎兵衛と同じくらい「外れた」印象。太刀の由来、出所、銘を二人に聞き糺しどちらが真の太刀の持ち主かを「検証」して行くのだ。ところが、先に万兵衛が答えるのを九郎兵衛がすべて盗み聞きをし、同じ答えを返すので、持ち主を決めかねる。

そこで万兵衛、太刀の地肌焼きの模様を連れ舞で表現したいと提案し、踊りを踊り始める。万兵衛と連れ舞を踊る羽目になった九郎兵衛。横目で万兵衛の踊りをみながら、それを少しづつずらして踊って行く。ここ絶妙!万兵衛の踊りが格調高いのにくらべ、九郎兵衛模倣版は振りそのものもアヤシイし、足許も不安定。正しく踊るよりも、こちらの「踊り」の方がはるかに難しい。松也に座布団一枚!そのアヤシサが愛嬌で、松也の本領発揮というところ。

どちらが持ち主かを決めかねた目代、最後は太刀の寸尺を耳打ちさせる。なんとか盗み聞きしようとする九郎兵衛。それを見とがめた目代の追求に困り果てた九郎兵衛、とうとう泥棒とばれてしまう。目代が彼の壷折を脱がせると、盗品が出てくる。ほうほうの体で逃げ出す九郎兵衛の後を目代が追いかけて行く。

松也はこういう役、楽しんで演じているのがこちらにも伝わってくる。適役。『GOEMON』のカルデロン神父役もそうだったが、マジメな二枚目役ではなく、すました中にもオカシ味のある役がぴったり。なんと、映画『源氏物語』では頭中将をしたという。ちょっと風貌が甘すぎるかもしれないけど。でも歌舞伎外での活動も盛んにしているようで、それらがすべて舞台に結実していると思う。

亀三郎は声がよく、また口跡もよい。だから、もともと狂言だったこの演目で、狂言を模して自身の説明をするところなど、よく通る声でいかにも「狂言役者」という感じが出色だった。お父様の彦三郎はいわゆる「悪役」、それも大物の悪役で何度も観たことがあるが、タイプがずいぶんと違う息子である。そのニンに合った役を演じると、幅もずいぶんと広がるに違いない。楽しみな役者だなと思う。『妹瀬山』の求女を演じたことがあるというが、ぴったり。

市蔵はいつもながら手堅い。この人もなくてはならない脇役、それも大物である。目代のいささか抜けた、それでいて決めるところは最後に決めるという役、そしてそこに狂言独特の笑いの要素を入れるなんて芸当、結構難しい。