yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「レビュー、春のおどり―桜咲く国」OSK日本歌劇団@大阪松竹座 4月20日 昼の部

構成は以下の通り。

第1部 山村若 構成・振付 / 吉峯暁子 演出
『桜絵草紙 〜浪花バージョン〜』

第2部 第2部  名倉加代子 作・演出・振付
『Catch a Chance, Catch a Dream』

【出演者】 桜花昇ぼる・高世麻央・朝香櫻子・桐生麻耶・緋波亜紀・牧名ことり・折原有佐・平松沙理・真麻里都・恋羽みう・楊琳・蒼音淳・悠浦あやと・白藤麗華・虹架路万・和紗くるみ・愛瀬光・舞美りら・城月れい・香月蓮・華月奏・遥花ここ・麗羅リコ・由萌ななほ・星南ゆり・かなめ樹里・実花もも・美月あんじゅ・榊紫之・栞さな・桃葉ひらり (89期生(初舞台生))千咲えみ・翼和希・穂香めぐみ・彩名ひめか・すばる未来・颯星るい・可純小春(以上38名)

以下OSKサイトからの舞台写真。上が4月5日から9日までの日生劇場でのポスター。下が今回の分。


宝塚を観ても感動しなかったので、今回も「どうかな」という感じで出かけた。先日ロンドンでミュージカルを観ても、なにかしっくりこなかった。自分がミュージカル好きではないことは、これで「証明」されたのだろう。

「レビュー、春のおどり―桜咲く国」、とにかく綺麗だった。38人もの踊り手が一斉に舞台で踊るのはたしかに圧巻だった。レビューの典型をみた気がする。でも宝塚とは違っていて、なにかメッセージを伝えようとする踊り手たちとの心意気も伝わってきた。演出もメッセージをはっきりと打ち出すものだった。そこは宝塚とは違っていた。宝塚の舞台、シュミラクルの典型で、空疎の極みだったから。観客に何を伝えたいのかも明確ではなく、ただただ虚構に徹した「夢の世界」を展開するだけだった。踊り手も標準化された、いわばサイボーグで、彼女たちひとりひとりの内面が出る余地のない演出がされていた。まあ、内面なんて元々「ない」に等しいので期待もされていず、だからこそ受け手の観客も空疎さに淫することができるのかもしれない。

その点ではOSKの舞台はもっと「有機的」というか、生々しかった。その分パワーもあった。踊り手も平準化された踊り手ではなく、いろいろな体型の人がいたし、年齢も上は40歳前後だったように思う。舞台に立っていた人たちのなかに「サイボーグ」がいなかったことだけはたしかである。

物語をミュージカル形式でみることに、私のなかに抵抗があるのかもしれない。第一部はショーだったので、場面と場面の繋がりがあまりなくても、それなりに楽しめた。しかし、第二部の『Catch a Chance, Catch a Dream』の方はもう少しシーンのシークセンスに繋がりを持たせた方が良かった。全体にかなり唐突な感じがして、感興がそがれた。それで気づいたのだが、舞台の肝はストーリー展開にあるのではなく、凝った舞踊構成にあるのだ。ダンス、それも群舞をいかに美しく、統制された形でみせるのかというところに主眼がおかれているのだ。その点では、まさに “Good job!” だった。でも芝居ということに拘る私のような人間には、ずしんと身体の奥底に響くものが感じられなくて、がっかりだった。

バレエの下敷きになっている「物語」には、もっと心にせまる内容が盛られている。だから踊りを観た観客は感動するのである。ダンスの美しさに打たれるのはもちろんだが、それが表象する何か、物語性の孕む不条理といったもの、それに打たれるのである。その意味では、OSK のレビューも宝塚ほど空疎ではないとしても、充実した舞台とはいえないだろう。

ただ、私が期待したことと、今日の観客たちが期待していたこととは異なっているに違いない。そういうのを「ナイモノネダリ」というのだろう。そうなると私の「批評」も意味がないということになる。

踊りということであれば、第二幕の「砂漠の眩惑」が前衛的ですばらしかった。また、どの場面でも中心になっていたトップスターの桜花昇ぼるさんが、はっとするようなオーラがあった。凄い人気なんでしょうね。宝塚のトップスターにはない色気がムンムンとした。

以下はOSKのサイトから拝借した彼女の写真。実際はもっと色気があった。