yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ロンドンの劇場の観客

芝居が始まる前に劇場内の写真を撮ろうと思いつつ、デジカメを忘れてしまって、結局一枚も撮れずじまい。ニューヨークのそれらと比べると、内部ははるかに豪華である。どの劇場も例外なく、内装は華麗なヴィクトリア調の装飾が施されていて、建築家の垂涎の的だろう。The Duke of York's TheatreはWalter Emden、The Coliseum TheatreはFrank Matchamの手になる建築である。

しかし、ロンドンの劇場の観客はいたって地味。オペラを見たわけではないので、断言を避けるべきかもしれないが、コロッシアム劇場でのバレエの観客は普段着(?)の人が多く、カジュアルな服装で赴いた私でもそう引け目を感じずに済んだ。また、マチネを観たためだろうが、観客は観光客でなく地元の人が多かった。ニューヨークだと、地元でもユダヤ系の人が多いが、こちらはそうでもなさそう。またマチネということで、時間の都合のつく年配客が多かった。それは日本の芝居の観客にもいえることである。でも大きな違いは、男女比である。日本では圧倒的に女性が多いが、こちらは半々、場合によっては男性の方が多かった。芝居好きに男女差があるわけもないので、日本では若い時から演劇をみるという習慣が薄いせいかもしれない。日本の男はずいぶん「損」をしていることになる。また、カップルで観劇するというのが普通であるような欧米と比べると、日本ではまだまだ女性同士というのが一般的である。

なによりもの違いは、感情表現が豊かなこと。ウィットにとんだセリフ、的を射た皮肉、そういうものに、敏感に反応、それも即刻である。それは舞台に自分たちも参加しているという意識が強くあるからだろう。日本では伝統芸能の観賞は至って静かである。例外は歌舞伎での掛け声くらいなものか。大衆演劇ではそこがもっと「参加型」になっていて、それが舞台と観客の一体感を強めることになっている。江戸時代にはそれが当然だったことを考えると、現在の伝統演劇の観賞の仕方はちょっと残念な気がする。おそらく「芸術鑑賞」はお澄まししてするものだと思いこんでいるのでは。江戸時代の歌舞伎見物の浮世絵をみると、桟敷席は別として観客がいかに寛いで観ているかが、伝わってくる。下手な役者にものを投げつけるなんてことも有りだったのだ。そういった猥雑さがなくなってしまった分、舞台の楽しみが減じているのは間違いない。このあたり、服部幸雄さんも嘆いていたっけ。

『ユダの接吻』を観た折、お隣は老婦人だった。当日の朝、ボックスオフィスで出会った方で、公演でも隣で驚いた。シニア用の割引があるのだという。観劇が日常の中にしっかりと入っていて、それをサポートするシステムが存在することが、羨ましい。近郊からバスで来たとのことだった。もうお一人、その隣に座られたかたも年配の男性で、かなりの演劇通だった。フランス人のリタイアした元ビジネスマンで長くロンドンにいたのだという。リタイアしてからはフランスのリヨンに在住なのに、定期的に泊りがけでロンドンに芝居を見に来られるとのことだった。「演劇はなんといってもロンドン」とおっしゃっていたが、フランス人が聞いたら気を悪くするでしょうね。彼の各劇場批評が面白かった。こんな風にイギリスの芝居小屋でお隣と話をするのは初めて。アメリカではよくあったのだが。

『クオーターメインの学期』の観客は家族連れも混じっていた。あまりないことなので驚いたが、語学学校が舞台になっているからなのだと納得。それに、幅広い年齢層に人気の「Mr. ビーン」主演ということだからかもしれない。彼は去年「引退宣言」したことを、さっきネットで知った。それを惜しんでのことなんでしょうね。彼が正面を向いて、あの何ともいえない人を喰った表情を浮かべるだけで、くすくす笑いが起きていた。人気なんですよね。観客の期待に十分に応える彼のサービス精神もなかなかのものである。

バレエの観客は芝居のそれとは大分違っていた。なにより、観光客が多かった。おそらく本国でチケットをとってきていると思われる人たちだった。芝居では見かけなかった日本人も結構な数混じっていた。ニューヨーク、ボストンでのクラシックコンサートでも、そしてプラハ国立劇場でも、アジア人とみればほぼ間違いなく日本人だった。わが同輩がいかに「芸術」に熱心な国民かが良くわかる(ということにしておこう)。