yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「ミスター・ビーン」 in 『クオーターメインの学期』@Wyndham's Theatre、 ロンドン 3月28日

"Quartermaine's Terms" @Wyndhams Theatre、 March 28 matinee

昨日の昼夜観劇で懲りて、今日は木曜日のマチネを探した。マチネのみで、あとはホテルで寛ごうと考えたのだ。

いくつかあった中で、例の「ミスター・ビーン」のローワン・アトキンソン主演のこの芝居にした。12時近くに劇場のボックスオフィスで一番安い席[25ポンド]を手に入れた。バルコニーだけど、よく見えるということだった。中華街で食事をし、劇場に戻ると、”Lucky you!” といわれた。訝しんでいると、なんとStall の特等席に替えてくれていた。前から8列目のど真ん中。昨日は52ポンド払ってもそう良席でなかったのに、なんという違い。思う存分観賞することができた。

昨日のような全編精神分析的セリフに塗り込められた芝居とは全く正反対の「旧式な」?芝居だった。こういうのこそ芝居好きには堪えられない魅力なんでしょうね。作者のサイモン・グレイの作品はニューヨーク、ブロードウェイで観たような気がする。2008年に71歳で亡くなっていた。そういや、この芝居、新派のそれを思い出させるところが多々あった。それぞれ、時代を如実に反映した「写実的」な舞台だからだろう。

背景は1960年代のケンブリッジ大付属の語学学校。世界各地から英語を「勉強」しに人がやってくる。何度か「日本人が来ている」というセリフが挿入されていたが、それがステレオタイプ的な使われ方で、ちょっと鼻白んだ。

タイトルだが、原題の"terms"はいくつかの意味を含んでいるが、ここでは「学期」にしておいた。

7人の教員が登場。まるで職員室の主のごとくいつもそこに鎮座しているSt. John ('Sinjon'「シンジャン」に聞こえる) Quartermaineに、他の6人の教員たちはそれぞれの悩みを話す。それぞれがのっぴきならない問題を抱えているのだ。シンジャンはといえば、日本的にいえばKYの典型。外れまくっているので、彼らの悩みが「分かる」わけではない。もちろんそれを共有できるわけでもない。どこか浮世離れしている彼は、学生ともうまくいっているわけがない。学生からの苦情が毎学期のように届いている。調子っぱずれの彼にはそれが一体何を意味しているのかさえ、分かっていない。ただ、ただ、「親切」な性格なので、ある。それが彼の取り柄でもある。いつもそこにいて、それだけで、どこか安心させるような雰囲気も取り柄といえば取り柄である。

この教員たち、ほとんどがいわゆるオックスブリッジ出身の「エリート」たちなのだが、「誇るべきところ」は唯一そこのみ。それぞれ違ったレベルではあるが、浮世離れしている。それでいて、やはり気位はそこそこ高い。しかし会話の端々にその教養を疑わせるセリフがちらりと挿入されるあたり、作者も人が悪い!たとえば、ストリンドベリの芝居に行こうとシンジャンが他の同僚を誘うのだが、彼らは『桜の園』のチェーホフと混同する始末である。

校長がヘンリーという同僚(自己肯定的、超おしゃべり男)にかわると、シンジャンは解雇を言い渡される。一人職員室に残されたシンジャン、なすすべもなく、”Oh, Lord….”とつぶやく。ここにも昨日みた『ユダの接吻』のワイルドと同質の人間がいる。果てしない孤独を受けとめる人である。あわてず、さわがず、抵抗しないで静かに受け入れている人たちである。

ローワン・アトキンソンは文句なしによかった。悲劇的な人物におかしみと、そして崇高性を加えることができる役者は、いくら英国の演劇の層が厚いとはいえ、そんじょそこらにそう転がっているわけではない。この人の強みを一言でいうなら、その絶妙の間のとり方だろう。喜劇畑で培ってきた無敵のうまさである。以下はMr. ビーンのアトキンソン氏。

他の役者もすべて好演だった。パンフレットを買いそびれたので、ここでは彼らの名と役名は割愛する。

以下がWyndham's Theatreの写真。一部にちらっと主演のローワン・アトキンソンの写真もみえる。