yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「アメリカ映画が描いた昭和天皇 『エンペラー』を見て実感した日米関係の成熟」

これは『JBPress』に投稿されたあの古森義久さんの記事

長く海外に滞在されているジャーナリストで、その滞在先であった中国批判もアメリカ評もきわめて信用に足る方である。日本では7月に公開予定だという。最近やっと「修正」されてきたとはいえ、偏ったいびつさ(特にアジアのさる国々に対しての)でぬり込められているかにみえる日本の近現代史の歴史観、それに一石を投じ続けてこられている。私自身が10年間に渡るアメリカ生活で、自身が受けてきた「自虐的」歴史教育を見直さざるを得なかった経験から、常々彼の評論には共感することが多かった。

この映画評には、「人間らしく描かれていた日本人」、「日中戦争を描いた中国の映画とは大違い」という二つの項目が入っているが、それからも映画の全体像は見えてくるだろう。アメリカのアカデミズムの中には、太平洋戦争での「日本=悪」という図式を何にでも律儀にあてはめるスクールがあるが、またそれを批判する人たちもいる。それがアメリカの公平なところで、私がアメリカ好きなのもそこにある。だから、古森さんが述べているような立場(standpoint)をこの映画が採っているとしても、驚かない。

ただ、「文芸」としてはどうなんだろう。古森さんが記事中にリンクしている『ワシントン・ポスト』の映画評を読んでみた。

主人公はボナー・フェラーズ准将[U.S. Gen. Bonner Fellers (Matthew Fox)と日本占領の連合国総司令部(GHQ)最高司令官マッカーサー元帥[Gen. Douglas MacArthur (Tommy Lee Jones)]ということになっているらしい。監督は『真珠の耳飾りの少女』のPeter Webber。原作がフェラーズとアメリカに留学していた日本人女性、あやとのラブロマンスを描いたものなので、映画もそうなっているようである。そのあたり、少々抵抗はあるけれど。ワシントン・ポストによると、劇中に姿を現すことのない天皇、Hirohitoは、フェラーズが再会しようと探しまわるものの見つけ出すことができない恋人、あやと、重ねられているのだそうである。

すぐにでも観たいのだが、7月まで待つしかないのかも。