yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

通し狂言『隅田川花御所染』@国立大劇場3月6日

「女清絃」として知られる演目である。
以下が紹介記事。

<歌舞伎>福助が堕落するお姫さま あすから国立大劇場「隅田川花御所染」2013年3月4日
 中村福助が五日から、東京・国立大劇場の三月歌舞伎公演「通し狂言 隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)」で初役の花子の前(まえ)、後に清玄尼(女清玄)を演じる。四世鶴屋南北作で二十五年ぶりの上演。同じ南北作の「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」をちょうど裏返して、尼が男に惚(ほ)れて堕落していく物語だ。福助は「お姫さまがストーカーになってしまうという現代にも通じるお話。若いお客さまにも楽しんでいただけるのでは」と話す。(藤英樹)
 「〜東文章」では桜姫に恋した僧・清玄が破戒僧となり、桜姫に殺されても怨霊となって追い求める。「隅田川〜」では入間家の息女・花子の前が剃髪(ていはつ)して清玄尼となり、妹の桜姫の婿となった松若丸に恋慕。悪党に殺された後も怨霊となり松若丸を追い求める。
 南北が江戸文化年間、“目千両”と呼ばれ目に色気があった美貌の女方・五代目岩井半四郎のためにまず「隅田川〜」を書き初演、その三年後に「〜東文章」が初演された。
 その後「〜東文章」は人気演目となったが、「隅田川〜」は長く上演が途絶えていた。明治になって福助の曽祖父に当たる五代目中村歌右衛門が復活し、戦後は大叔父の六代目歌右衛門に受け継がれた家の芸だ。
 今回、国立劇場文芸課が過去の台本を補綴(ほてつ)し、物語の背景にあるお家騒動をしっかり描きつつコンパクトにした。清玄尼が松若丸に惚れるアイテムとして“金剛草履”なる、履くと男に一目惚れしてしまう霊力を持つ草履を考案。大ゼリを使った清玄尼の身投げ場面や、舟に乗る登場人物たちのダンマリ(暗闇を動き回る歌舞伎独特の演出)も。大詰めは「道成寺」を模して怨霊となった清玄尼が大鐘に隠れ、最後は忠臣によって押し戻される。
 福助錦之助翫雀に加え、若手が大役に挑む。松若丸を演じる錦之助の息子で十九歳の隼人(はやと)は「(桜姫と清玄尼という)女性二人を狂わした経験はありませんが、舞台では歌舞伎らしい二枚目の風情を出せたら」と意気込み、福助の息子で桜姫を演じる十九歳の児太郎は「緊張していますが楽しみ」と話す。

上の解説にもあるように、これは四世南北の代表作、『桜姫東文章』の男女逆転版である。去年8月、新橋演舞場海老蔵主演の『東文章』をみて、このブログ記事にした。そのとき破戒僧清玄を演じたのは愛之助、そして桜姫を演じたのが福助その人だった。だから福助にとってみれば、今回のものは南北ものへの再挑戦ということになる。前のブログにも書いたが、『東文章』の福助は相手を張る海老蔵に力負けというか、迫力に欠けていた。今回の花子の前(後の女清玄)は「主役」ということもあり、ずっと前へ出る演技ではあったが、やっぱりどこか「上品」で、もっといやらしさを出してほしかった。もちろん歌舞伎の演技というしばりはあるのだろうが、伯父の歌右衛門が独自の解釈を役に加えたように(それによって美しさが内包するおぞましさを描いたように)、そこにもうひと踏ん張りほしかった。なんていったって、女性という肉体にはめられている女性自身には演じきれない役である。対象として客観化できる男性演者の方が、こういう嫉妬に狂った女の役は「有利」であろう。こういうどろどろした嫉妬劇にこそ、南北の本領が発揮されているんですからね。『妹背山』のお三輪の嫉妬とは違った色合いがでなくっちゃ。嫉妬は嫉妬でも尼さんが破戒して、そして狂ってるんですから。なんとも南北らしいというか、そこのところ、強調してほしかった。丸めた頭での破戒は当時慮り知れないインパクトがあったに違いないから。それを生かしてほしかった。

若手を抜擢して、主役級に据えているのは高く評価されるべきだろう。でも福助翫雀などのベテランに比べると、やはり力量の差は否めなかった。それを打ち消すだけの勢いがあれば良かったのだが、ちょっと残念だった。特に桜姫の児太郎、松若丸の隼人がもう少し勢いがほしかった。それに比して、惣七役(去年の」『東文章』では海老蔵の役)の松也はよかった。なんともいえないおかしみがあるんですよね。今の若手では貴重な存在だと思う。『GOEMON』の神父、出色だった。

この芝居、例の『鏡山』のエピソードが挿入されていたそうで、だから岩藤だの草履だのが出てくる。また最後の場面の女清玄はまさに『関の扉』の薄墨の精。桜の枝を手にしての立ち回りである。有名な歌舞伎芝居のアリュージョンが随所にみれて、楽しい。

舞台装置は斬新さと伝統との混合体だった。斬新さの部分により比重をかけた方がさらに良かったのでは。冒頭がきわめて斬新な装置だったので、これが続くのだと期待してしまった。ベタッとした伝統的なものと比べると、立体的で素敵だった。

国立劇場の補綴にはいつも感心する。この芝居も非常によくできていた。商業演劇の松竹とは違った方向での歌舞伎へのアプローチ、高く評価されるべきだろう。でもちょっとだけ「あれ?」と思ったのが、例の草履の扱い方。この草履を見ることで女清玄が狂うという設定は、「女が(人が)自覚しないままにもつ情念の深さを演出する」といった趣を減じてしまっている。草履を見て狂うのは最初だけで十分である。その方が「近代的解釈」だろうし、観客にはしっくりくる。「女清玄は草履をみて狂ちゃったんですよ」という説明は不要である。

筋書きに掲載されている「批評」も松竹のものとは違って、専門的で正鵠を射ている。今回は鵜飼伴子さんの「美人姉妹の過酷な運命」というのを興味深く読んだ。