yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

菊五郎が丑松の『暗闇の丑松』@新橋演舞場3月8日

長谷川伸原作の「新歌舞伎」の演目である。講談がもとになっている。非常に暗い内容のため舞台化が実現しなかったところ、六世菊五郎の強い希望で上演されたという。菊五郎が主役、丑松、三世左団次がお米という配役だった。

「暗い」といっても大衆演劇でしばしば見受けられるような、唖然とするような理不尽な残酷さはない。理不尽は理不尽だが、「悪人」の中にも人間の弱さがちらりとみえるような描き方がされている。「ネチネチと弱者を虐める」という大衆演劇、とくに九州系では頻繁にみられる場面も、お米が育ての母に虐められる冒頭場面のみ、そこはいかにも長谷川伸らしい。モダンなのだ。大衆演劇にも長谷川伸がしばしばかかるが、この演目はまだみたことがない。こういふうに人物造型するほうが、はるかに難しい。でも大衆演劇の役者にも挑戦してほしい。力量のある役者もいるのだから。

芝居の落ちのつけ方もモダンだった。勧善懲悪的な、悲劇的な終わり方ではなかった。丑松を捕り手の手に落とすのではなく、逃すのだ。こういうところも大衆演劇にマネしてほしいところである。

丑松を演じた松緑は力みすぎだった。丑松の「思慮のなさ」という面を出すにはこういう演じ方もあるかもしれないが、彼の場合、どちらかというと地が出てしまっただけのような印象を受けた。リアリズムの演技が要求される場合、ふつうの意味での「演技力」が非常に大きな要素になる。歌舞伎の型に則った演技とは180度違った演じ方をしなくては、人物が立ち上がってこない。この昼の芝居の最初の『妹背山』の「御殿」の場の無骨な漁師と、演じ方があまり変わっていなかったのは、やはり問題だろう。大きな声で元気よくするのでは、丑松の単純さは多少描けるかもしれないが、もっと心理に踏み込んだ描き方は無理だろう。

お米の梅枝はよかった。先日みた『GOEMON』では石田局をやったんですね。あまり印象に残っていない。重要な役どころでなかったからかもしれない。お父様が時蔵。道理で「萬屋」と声がかかっていたっけ。非常に研究熱心なのが、その役作りに窺えた。こういう悲劇の女性は女性が演じるよりも男性が演じた方が、役と同化しすぎる心配がないぶん、上手く演じられるのかもしれない。哀しくて哀しくてやり場のない心持を、さりげない首の傾げ方、手の付き方、視線の方向、身体の線でみごとに演じきった。あっぱれだった!声もよい。顔も美しい。と、三拍子揃っている。ホント、歌舞伎の新しい胎動を担う一人にカウントされてるんでしょうね。私が知らなかっただけで。

歌舞伎の花形たち、すごいですよね。『GOEMON』のときと同様、ここにも多くの花形たちが登場していて、舞台の中核を担っていた。岡っ引き役の坂東亀三郎もよかった。彼は『妹背山』の「御殿」では求女をやったのだが、イケメンの優男というのがいかにもニンにあって感心した。この芝居で料理人、祐次をやった坂東亀寿もよかった。前の演目の「御殿」で橘姫を演じた尾上右近もよかった。全員に共通しているのは声のすばらしさだった。よく訓練された、抑制の効いた美しい声の持ち主だった。

そしていわずもがな、「御殿」ではなんといってもお三輪の菊之助。文句なしのパーフェクトだった。「御殿」評は別稿にする。