yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

心機一転

ここしばらく落ち着かない日々を過ごしてきた。期末試験も終わって学生は春休みというのに、私はこの一週間というもの、朝から晩まで留学から帰国した学生への補講で連日追われて、疲労困憊の極地。その上成績の提出が遅れに遅れて、やっと昨日提出した。事務的なことの苦手な私だけれど、この手のことは精神への負担が少ないので助かる。やり始めると捗が行くので、さして苦痛ではない。

留学からの帰国生も私の所属する学部では良くできる学生たちなので、こちらの精神がおかしくなるほどコミュニケーションに支障があるなんてこともあまりない。普段相手にしている学生たちがまるで異星人のようなのと比べると、遥かに楽である。問題は、私の専門とはかけはなれたテーマで授業を進めなくてはならないことで、学生側にも不満が残るのではという不安が常につきまとう。当該学生はオランダ、スウェーデンへ5ヶ月ばかり「留学」して帰国した学生たちで、向こうの大学で専門科目(ちなみに経営学)の授業を履修してくることになっていたが、そんなのはじめから無理なので、帰国後、補講をすることで単位認定するわけである。向こうでの授業は英語での授業なのだが、多少英語ができるくらいで向こうの大学の講義を理解してこいなんてことは、お月さまを取ってこいというようなものである。このプログラムを作った張本人に、自ら海外の大学に出向き単位を取ってこいと、文句の一つも言いたくなる。

日本の多くの大学では十年一日のごとき「講義」で、試験は教師のその講義がそのまま出るなんて代物が多い。ひどい場合は担当者の書いた本のみをテキストとして使い、それで印税稼ぎをしている輩もいる。アメリカの大学では授業担当者が自分の書いたテキストを使うことはまずないし、万が一そういう場合は、一章分のコピーを手渡された。一回の授業でのリーディングアサインメントは4、5本のアーティクルで、100頁前後。一週間に3、4種類の授業を取っている場合、一週間に読む量は数百頁に及ぶ。その合間をぬって短いペーパーやら長いペーパーやらを提出しなくてはならず、寝る間も惜しんで勉強しなくてはならない。日本の大学教師が向こうで「聴講」の名目で入り込んでも、途中でギブアプとなるのは目にみえている。第一、そういう奇特なセンセイに出くわしたことがない。おそらく授業自体が(いくらご本人の専門でも)チンプンカンプンだったのではないか。かなり前に筒井康隆さんの『文学部唯野教授』という本がベストセラーになったことがあったけど、実態はもっとひどい。日本から「在外研究」とかでやってきた教員の姿を授業中に見かけたことは、私が滞在していた7年間に一度もない。

私の所属する学部は文学書なんてものにおよそご縁のない教師ばかりなので、おそらく「唯野教授本」を読んだことはないだろう。そもそも留学しようなんてガッツのある(?)人はいないから、仮に読んだことがあっても、他人事として読むだけである。だから、留学した学生がなぜ向こうで単位をとれなかったのかが分からない。ご自分が英語での講義をききとれなくても、学生なら(魔法がかかったように)理解できるはずだと思う訳である。「そんなわけねぇーだろ!」と叫びたくなってしまう。おそらく教授会でその手の批判がでるだろうから、それに備えておかなくてはならない。これも実に腹立たしい。「あんたが行って単位を取ってこいよ」といいたくなる。喧嘩になってはお終いなので、我慢我慢。

欧米の大学の授業に食らいつける日本人学生が少ないというのは、英語の、あるいは留学先の言語の問題というより、学生のマチュリティの問題、そしてその思考力の問題である。日本の大学がディズニーランドになってしまったのとは対照的に、他のアジアの国々は質の高い教育を目指しているような気がする。アメリカのトップ校へ留学してくるアジア圏の学生をみていると、夙にその思いを強くする。

日本でハウツーものに属する「教育」がはびこっているのをみると、残念で仕方がない。たとえばTOEIC。こんなの、教師が「教え」なくとも学生が自習するものでしょう。それを授業の一環として取り入れているダイガクが雨後の筍のように増えてきているのをみると、愕然とする。それって、大学で教えることですか。加えていわゆる教養科目の軽視。欧米の大学が教育の基本に教養科目を据えているのと好対照。それでも以前、イェール大のアラン・ブルーム等は教養科目軽視、古典軽視に強く警鐘を鳴らしていた。

英語でいわゆるコンテンツクラスの授業をするにはそれだけのバックグラウンドのある教員が必要になる(最低Ph.D.)。単に英語が「しゃべれる」だけでは、きちんとした教育ができる訳がない。私の所属するダイガクでも英語で色々な科目を提供するという研究所を立ち上げた。その中身と担当者がみものである。

私の「場」がもはやここにはないからには、できるだけ早く「退出」すべきだろう。一刻も惜しいのだけれど。