yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

新春浅草歌舞伎『寿曽我対面』@浅草公会堂1月25日

いわずと知れた曽我十郎、五郎兄弟の仇討ち物語が下敷きである。初春の出し物に相応しく、賑々しくも華やかだった。とくに若手がうち揃っての「曽我対面」は見る価値十分だった。
以下はサイトからの本公演にむけての宣伝写真。

この最初の演目上演の前に意外や意外、亀鶴さんが定式幕をバックに登場。「口上」を行った。若手中心の新春浅草歌舞伎では慣例になっているのかもしれないが、私は初めてだったので新鮮だった。客席との距離を縮めるのに効果的である。途中から客席に降り、観客を巻き込んでのトーク、面白かった。お年玉まで用意してあり、なんともいい雰囲気だった。前から三列目あたりに座っていたので、亀鶴さんのお顔を至近距離でみてしまった。目が赤く、ちょっとお疲れのようだった。いかにも現代の青年という感じで、床の間に飾られているというように思われがち(?)な歌舞伎役者ではなく、親しみのもてる普通の人という感じだった。昔の歌舞伎では当たり前だったことがいまでは旅芝居(小芝居とよばれる大衆演劇)にだけかろうじて残っているのが、ここで再現されるはとても意味があると思う。観客との距離を縮める工夫はずっとやっていただきたい。

黙阿弥作という『寿曽我対面』だが、ちょっと退屈だった。海老蔵にはこの工藤祐経という悪役はもう一つ似合っていなかった。筋書の解説によると、「敵役ではあるものの分別を示す立役の実事として演じる」というのがきまりなのだそうである。おそらく海老蔵はできるだけ引いて(彼のニンには合っていない)この役柄に自らを合わせようとしたのでは。ちょっと無理があった。彼のニンからいうと、曽我五郎の方がぴったりだったのでは。より若い松也と壱太郎に十郎、五郎を演らせるために、祐経役に回ったのでは。

そして肝心の十郎、五郎役の二人、どちらもニンには合っていなかった。松也はその容貌ゆえにカワイすぎたし、壱太郎は兄の落ち着きに欠けていた。だからただただ、形式としての「曽我対面」としてみるしかなかった。単純なようでいて、若手がやりおおせるにはそれだけの力量を強く要請する演目なんでしょうね。やっぱりこういう動きが多いとはいえないリチュアスティックな出しものは、老練役者のものなのかもしれない。