yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『ポリグラフ 嘘発見器』@東京芸術劇場、シアター・イースト 12月15日

以下が演出、出演者。

脚本・構想:マリー・ブラッサール、ロベール・ルパージュ

演出:吹越満

出演:
吹越満
 森山開次 
太田緑ロランス

宣伝用スティールが以下。

そもそも森山開次をe−テレの「日曜美術館」で観たことが、この芝居を予約するきっかけだった。それだけの理由で、他の予備知識もないままに出かけたのである。

この東京芸術劇場の「シアター・イースト」、演劇空間として非常に優れていた。一番前の席だったので芝居の最中には全体を俯瞰できなかったのだが、座席が階段になった小劇場で、まさに欧米の小劇場の造りである。入った瞬間からその雰囲気があまりにも「懐かしい」感じがした。ブラウン大学付属の小劇場、ハーバード大学付属の小劇場、そしてもちろんニューヨーク、ブロードウェイのオフ、オフオフの劇場、最近ではフィラデルフィアの小劇場を思いださせるものだった。ほんとうにそのままだった!全面黒の内装、簡素な舞台と舞台装置、その舞台で演じられる前衛的演劇、そのすべてがまさにアメリカの舞台だった!

装置はかなり凝ったものだった。映像をふんだんに取り込んでいるのが、前衛的で、先日みたMETの『ジークフリート』のビデオ上映を想起したのだが、あとで、この演劇の構想をしたロベール・ルパージュがまさにその『ジークフリート』の演出をしたことを知り、なるほどと思った。ただ、『ジークフリート』と比べると、ダイナミックさに欠けていた。

なんでもこの『ポリグラフ 嘘発見器』はロベール・ルパージュの初期作品だとかで、初演当時かなりの成功をおさめたのだとか。芝居の構成はいわゆる「不条理劇」をおもわせる前衛的な色彩の濃いものだった。これってある種の「先祖還り」(?)と思わせられた。問題はそれがすんなりと私の中に入ってこなかったことである。不条理劇には慣れている私だと自負しているのだが、この芝居にはいささか白けてしまった。あまりにも理屈っぽくて、余裕がなかった。芝居なんだから、いくら前衛を気取るにしても、どこかにムダというか余裕のようなものがないと、説教になってしまう。そんな俳優の独りよがりの口説を観客は聴きに来ているわけではない。それがこの芝居の構想の本家であるルパージュの所為なのか、それともたまたまこの日の演出者の所為なのか。

演出兼主演の吹越満はたしかにかなり「理屈っぽい」人なんだと想像する。でもこういう理屈っぽさって、煩わしいんですよね。若い演劇人が得てしてそういう理屈っぽさこそが演劇の真髄と「誤解」する傾向があるのは分るのだけれど、それこそ観客を置き去りにする独りよがりなんですよね。かっての(今もおそらくそうなのだろうけど)新劇、前衛劇の演じ手がいかにもインテリ気取りで演じる演劇が面白くないのと同じなのだ。もっといえば、前衛気取りのインテリ役者の演じる芝居は、「高踏派」を気取るがゆえに普通の人間のいきざまを描出することができないのである。そんな芝居が果たして人を感動させることができるだろうか。

この吹越満という人、私にはかなり抵抗があった。この芝居は演出のみにとどめて、主演を他の人にするべきだったのでは。この芝居の主演の男が持っている筈の色気、魅力がまったくなかった。これじゃ(この芝居の中で)女が惚れないですよ。それにはあまりにも無理がある。

加えてプロットの前衛さにあくまでもこだわっているのが成功しているとは思えなかった。、これが分からない観客はバカだといわんばかりのある種の傲慢さを感じてしまった。それがひところの不条理劇にあった徹底した「傲慢」なら、そこに「イデオロギー」にみまごうばかりの愚直な拘泥を認めるが、それにしてはあまりにも「軽い」舞台で、何のメッセージも伝わってこなかった。それがもとの脚本、あるいは演出、あるいは演じ手の所為なのか。

太田緑ロランスの冒頭の登場からして、そういう「インテリ臭」をいっぱいに放つものだった。わざと下手なフランス訛の日本語を話すなんていう「演出」は余計でしょう。綺麗な人だったが、この冒頭で完全に興ざめで、あとはその欠点ばかりを数えてしまうことになった。観客を拒絶する姿勢がみえみえだったから。また、彼女の発声法にも問題があった。

唯一良かったのは、やっぱり森山開次!おそらくロベール・ルパージュ
が彼をみたら絶賛しただろう。彼が登場すると彼一人にすべてが集中した。あとの二人が完全にクスんでしまっていた。それほどの存在感だった。なんといってもその身体があとの二人とは格段にちがって秀でていたこと。芝居が身体性の上にはじめて成立するものだということを、嫌というほどはっきりと示してくれた。