yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ソフィア国立歌劇場オペラ 『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『ジャンニ・スキッキ』@兵庫県立芸術文化センター11月10日

公演チラシは以下。


『カヴァレリア・ルスティカーナ』
プロダクションは以下。

管弦楽/ソフィア国立歌劇場管弦楽団 
合唱/ソフィア国立歌劇場合唱団 
指揮/アレッサンドロ・サンジョルジ
演出/プラーメン・カルターロフ 

ゲルガーナ・ルセコヴァ(サントゥッツァ)、コンスタディン・アンドレエフ(トゥリッドゥ)、プラーメン・ディミトロフ(アルフィオ)、リュミアナ・ペトロヴァ(ルチア) 

がっかりしたのひとこと。チェコのレベルの高さを現地で経験していたので、旧ソ連圏のオペラのレベルの高さは保証済みだと思い込んでいた。またロシアバレエのすばらしさをここ一年の来日公演で確認していたので、ブルガリアも同レベルのバレエ、オペラ劇団を持っていると思っていた。一番高い席だったのだが、みごとに足を掬われてしまった。15000円の値打ちはなかった。残念。

なによりも歌手のレベルがヨーロッパの他地域と比べると低かったように思う。出演者をみると、スラブ系の名前が連なっているので、世界各地から優秀な外国人がやってきているわけではないのだろう。おそらくブルガリア人がほとんどなのではないか。同族で固まると、こういうイタリアオペラの場合、演出にしても歌唱にしても広がり、革新性のないつまらないものになる危険性がある。

加えて、おそらくブルガリアという土地柄なのかもしれないが、土俗的というか、悪く言えば「もっさりした」感じが強かった。演目によってはそれが生きることもあるのだろうが、イタリアオペラではその泥臭さがなんとも重かった。イタリアオペラの突き抜けるような明るさ、華やかさはまったく伝わってこなかった。それは舞台が空いた瞬間から分ってしまった。普通、空いた瞬間には客席にそれなりの反応——ジワが起きるか、さっと緊張が走るか−—があるのだが、昨日はそれがなかった。なんとも普通のプロップ、照明も平凡。だから最初の演目、『カヴァレリア・ルスティカーナ』が終わったときに、客席から「ブラボー」が喧しく聞かれたのが不思議だったし、腹立たしかった。ブルガリアの関係者やその招待客が怒鳴っていたのかもしれない。

私の周りの客席もあまりオペラを見慣れていない人が多く、「お勉強」として観ている感じがした。楽しくない舞台をみるほど辛いことはない。しかもこれだけの席料をとるのだから、それなりのものを観せる責務があるだろう。オペラを初めて観た人は「オペラってこんなにつまらないの」と思ってしまうでしょう。それにしても西宮の観客は他ホールの観客よりもマシかと思っていたけど、「よかったね」ナンて行っている人もけっこういて、案外ナイーブなんだとちょっとがっかり。

最初の出し物、『カヴァレリア・ルスティカーナ』は、これを現代の舞台でやるには相当の工夫がいると思わせる代物。というのもまるで昼ドラのような(英語だと”sit-com”のような)四角関係(?)の話で、恋人の男(トゥリッドゥ)をとられた若い女性(サントゥッツァ)、が自分から恋人を奪った女(ローラ)の夫(アルフィオ)にそれを密告。その結果トゥリッドゥとアルフィオ決闘、トゥリッドゥが死んでしまうところが大団円。一番のクライマックスがサントゥッツァの嘆きの部分になっている(筈である)。サントゥッツァの嘆きの場面(アリア)はいささかうんざりするほどあって、その度に観ている方は白けてしまう。設定自体、このセンチメンタルな話をどう料理するかで、今の観客に受けるかどうかが決まるという、非常に難しいものである。その処理が上手く成されていなかった。ただただ冗漫。筋を追っていただけだった。いくらなんでも、こんな筋書を喜ぶ観客なんて、現代にはいないでしょう。

その上、歌手たちのなんと凡庸なこと。とくに主人公のサントゥッツァを歌ったゲルガーナ・ルセコヴァのまるで田舎のおばさん様の体型!舞台はシチリアだし、雰囲気に泥臭さがあるのは当然なんだけど、彼女は歌も凡庸。その上嘆き悲しむ姿がどうみても「悲劇の主人公」らしくない。著名なオペラ歌手たちが(昔のように)太めではなくスレンダーになっている当今、この体型はないでしょう。歩き方もドタドタという感じで、興ざめ。


またトゥリッドゥ役の歌手も心理表現が上手くできていなかった。歌唱自体も凡庸だった。

プロップも一見現代風を装いながら、中途半端。
先日みたシュツットガルトバレエやウィーンのバレエのそれらとのあまりにもの差にあっけにとられた。「ヨーロッパといっても広うござんす」というところか。私が持っていた「ブルガリア」のイメージを補強こそすれ、ある意味裏切ることのない舞台だった。裏切られることを期待していたのに。

『ジャンニ・スキッキ』
指揮者は以下に変ったが、管弦楽団は同じ。演出も同じ。
指揮/ウェリザール・ゲンチェフ 

ウラディミール・サムソノフ(ジャンニ・スキッキ)、小林沙羅(ラウレッタ)、ダニエル・オストレツォフ(リヌッチョ) 

話は14世紀のフィレンツェ。ということらしいのだが、出演者が現代風の衣裳を着ているので(時代じみた服装になるのは、最後のみ)、時代設定が最後まで分らず。

シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』、『ベニスの商人』等の作品と場所は違えども近い時代設定ということか。シェイクスピア劇でおなじみの衣裳が舞台左右の陳列ケースに飾られていて、最後に登場人物が一斉にそれに着替えるのだけど、それって何のためと思わされてしまった。はじめから着ていればいいわけで、意味が分からない。そうすることに意味があるような、そういう解釈はどう考えても無理だった。すべてがこの調子。舞台真ん中にしつらえられた(工夫をしているつもりの)一段高くなった階段付きの小舞台も、それほど効果的に使われているとは思えなかった。欧米の他のオペラや芝居でもっと凝った工夫を観た後では、特にそうである。

歌手も『カヴァレリア・ルスティカーナ』のときと同じく凡庸。ただ一つよかったのはラウレッタ役の小林沙羅さん。とても綺麗なソプラノで、あの有名なアリア、「私のお父さま」はとても聴き応えがあった。

ネット検索をかけて、「坂東玉三郎の演劇塾『東京コンセルヴァトリー』の特別聴講生となって日本舞踊を習う」という情報を得た。道理で演技も自然で、他の歌手とは一線を画していた。容姿も申し分なしで、今後が楽しみな歌手である。