yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

明治座界隈と人形町

池波正太郎さんのというより『鬼平』の足跡を訪ねるという目的での先週の東京行きだったので、観劇の合間をぬってうろうろした。とはいってもおろしたてのスニーカーが足にあわず、靴擦れに悩みながらだったので思うようには回れなかった。

明治座は1995年8月に梅沢武生劇団の公演で行ったきりである。関西の人間にとって、「明治座」が持つ意味はもうひとつピンとこない。その折も歌舞伎を観に行ったのにチケットがとれず、せっかく東京にきたのだからと『ぴあ』で調べて赴いたのだった。水天宮駅で下車、銀座・新橋界隈とは違った途中の下町風の通りがちょっと意外だった。ところが明治座はそれとは対極をなすような立派、豪華な外観、内部の造りになっていて、またもや驚いた。もっと驚いたのが観客の熱気だった。私は二階席だったのだが、空席がほとんどない盛況ぶりは、歌舞伎を凌いでいた。「大衆演劇」というものを観たのがそれが初めてということになる。もっとも今思い返すと、大衆演劇でもかなりの洗練度だった。役者の客席へのアピールと、客席からの反応が歌舞伎にはないものだったのにも驚いた。もっと驚いたのは富美男さんの舞踊中に(あきらかに心付けが入ったと分る)大量の封筒が彼の着物に付いたことだった。万札そのものも付いた。それが決していやらしくなく、応援が心からのものと素直に分るような気がした。でもまるで自分とは無縁の世界のような気がしたのも確かである。

そのときの武生さんの口上挨拶で、「明治座に乗れるとは夢のようだ」というのがあった。富美男さんも「おやじにみせてやりたい。どんなに喜ぶことだろう」とおっしゃって涙ぐんでおられた。それで初めて、明治座がある種の格式を保証する劇場だということを知った。歌舞伎座や国立劇場とはまた違った華やかでいかにも色町の芝居小屋らしく粋だった。またそれ以上にどこか西洋の劇場の要素が入っている感じもした。たしかにいわゆる「大衆演劇」で明治座に乗ることは考えられなかっただろう。梅沢劇団がそのとき乗ったのはおそらく富美男さんがメディアに取り上げられ、有名になったからだろう。映画やテレビにも出ていたはずである。

演目がなんだったのかを忘れてしまっていたので、明治座のサイトに入ったら、なんとすばらしい!記録をサイトにあげているんですよね。以下がその折の公演内容。

八月公演 梅沢武生劇団
梅沢富美男魅力のすべて
一 梅沢のおかしなおかしな 義経千本桜
二 梅沢富美男オンステージ
三 梅沢武生 口上
四 浜町夢芝居 雪の夜の捨て子
五 夏まつり 舞踊絵巻
六 特別番組 平成夢物語 龍神の舞

私は当時歌舞伎べったりだったので、『義経千本桜』をおそらくかなり改変していたことに抵抗があったのだろう。ぜんぜん記憶にない。でもオカシイしばいだったという印象は残っている。

富美男さんが足を怪我しておられて、痛み止めのカンフル注射を打ちながらの舞踊だという説明が武生さんからあり、怪我を押して出演するなんて歌舞伎役者では考えられなかったので、そのひたむきさに心打たれた。また観たいとおもいつつ、その折には実現しなかった。

今回は浜町駅で降りて、浜町公演を抜けて明治座の前に出た。なんと今月公演が梅沢富美男さんの劇団旗揚げ公演だった。
以下がそのチラシ。

ご縁を感じたのだが、その後三越劇場で新派公演があったので、みることは叶わなかった。いずれにしても、12月に大阪の新歌舞伎座で梅沢富美男旗揚げ公演をみることになっている。でもついでといってはなんだけど、11月の「花形歌舞伎」の昼・夜公演のチケットを買った。もちろん新猿之助さんひきいる澤瀉屋の公演。涎の出そうな内容だ。

明治座を出て人形町の方へ歩いて行ったのだが、15年前とはまったく違った光景が広がっていた。にぎやかなこと!いかにも江戸下町という風情をのこした店と新しい店が混然となって、そこに観光客が詰めかけ、押すな押すなの盛況だった。もっと時間があればゆっくりと探索できたのに残念。次回に譲ることにした。